鏡の考古学

序章


 邪馬壱国の所在地論争は、『魏志倭人伝』の行路記事のありとあらゆる解読案にもかかわらず、未だに決着を見ていません。

 これは、万人を納得させるような解読方法が発見されていないからですが、それでも『三国志』全体を調査せず、倭人伝だけであれこれ推理していた「古き良き時代」なら「正しい解読方法がまだ発見されていないだけかもしれない」という可能性も十分あったので、文献オンリーで邪馬壱国の位置がわかるかもしれないという希望が持たれていたと思います。

 ところが、おそらくは古田武彦氏に始まるのでしょうが、「倭人伝だけを調べていたのではだめで、『三国志』全体を調査しなければ倭人伝を解読することはできない」という新しい見方が導入されました。古田氏によれば、「漢字の用法を『三国志』全体から帰納すれば、倭人伝の矛盾のない解読方法が判明する」というのです。

 このような見方は斬新なものでしたから、この手法と結論の検証が、アマチュアを含む多くの研究者によって行われるようになりました。例えば「短里」の問題などはその最たるものでしょう。

 ところがその結果分かったことは、ある意味では当然といえば当然で、しかし非常に残念なことではありますが、「『三国志』全体を調べても、一つの漢字には多くの用法があり、しかも一冊の正史は一人の著者によって実際に書かれたとは限らず、従って文字の意味は一意に定まらず、このような方法によって漢字の用法を帰納して倭人伝を解読することは不可能である」というものでした。

 その検証の過程において、従来の「解読方法が判明した」と称する説はすべて、漢字の用例に関して「史料のいいとこ取り」や「恣意的な調査対称の制限」が行われていたために、「誤った説得力」を持ってしまったことなども明らかになったのです。 P> そうなると、文献のみによって解決することは見込みがなく、考古学にすがるより方法はないように思われます。しかし、考古学にも、文献とは違った意味で、複雑な事情が存在しているのです。

 そもそも、九州説の人にとってはなぜ未だに畿内説が生き残っている(どころか考古学者の間では通説でさえある)のか不思議でしょうし、逆に畿内説の人にとっては九州説などナンセンスだと思われていて、両者のギャップには計り知れないものがあります。

 まず九州説の人の主張ですが、考古学界では王論文にもかかわらず「三角縁神獣鏡中国製説」が定説になっている。しかし、「三角縁神獣鏡」は日本列島では何百枚も出土していながら、肝心の中国では一枚も出土しておらず、「これを中国鏡である」というのはどう考えてもおかしい。これに対して、プロの考古学者はこの最も素朴な、かつ正鵠を得た質問に正面から答えることはない。これを見ても畿内説はナンセンスだ。これに対し、残る(大量の)鏡は漢式鏡しかない。これの弥生遺跡からの出土はほとんどすべて九州しかない。これ一つ取っても邪馬壱国が九州であることは明らかである、といった具合です。

 これに対し、畿内説の人の主張は三角縁神獣鏡を卑弥呼の貰った鏡であることを大前提にしている人が多いので、それだけで九州説の人にはナンセンスに見えるかもしれません。このため、王氏が論文の最後に「だからといって私は畿内説が不利になったとは思わない」と書いていても、九州説の人にとっては、単なるリップサービス程度にしか思われていないのではないかと思います。

 しかし、ここに最大の誤解があるように感じるので力説したいと思うのですが、たとえ「三角縁神獣鏡は卑弥呼の貰った鏡ではない」と仮定しても、考古学的に、九州説が有利になるわけではないのです。

 まず、ほとんどの九州説の人は、卑弥呼の時代を弥生時代だと思っているようですが、実はこの「説」は特に根拠がなく、昔、各古墳がそれぞれの名前のついた天皇の墓であると仮定し、その天皇の実年代として『日本書紀』の年代を当てはめたことから、古墳時代は4世紀より古くならない、といった漠然とした年代感があり、このため3世紀は弥生時代なのは当然、と考えられてきたいきさつがあるようです。しかし、土器編年の精緻化に伴い、弥生時代の終わりはだんだんと古く考えられつつあり、つい最近も畿内の弥生遺跡から出土した木片の年輪年代が測定されて、通説よりはるかに古い時代であることがわかったという出来事もあり、卑弥呼の時代を証明抜きに弥生時代とみなすことは最早できないといっていいでしょう。

 また、一口に「漢式鏡」といっても、まず前漢鏡と後漢鏡の区別は重要です。これは、鏡の形式が前漢と後漢で時代が異なるというだけでなく、日本列島での出土の仕方も異なっているからです。

 まず異体字銘帯鏡などの前漢鏡は、ほとんどすべてが九州北部の弥生の甕棺墓から出土していますが、これに対し、方格規矩鏡や内行花文鏡などの後漢鏡は、弥生の九州中〜北部の箱式石漢墓と古墳からの出土が大勢を占めています。ところが「層位学」から立てられた土器の相対編年によると、「鏡を伴わない箱式石棺」→「前漢鏡を伴う甕棺墓」→「後漢鏡を伴う箱式石棺」といった流れが存在しており、前漢鏡が日本列島に入ってきた年代と後漢鏡が日本列島に入ってきた年代は、確かに鏡の年代どおりの順番に年代差があることがわかっています。 また、古墳から出土する後漢鏡は、大変面白いことに、出土の中心が九州北部と畿内に、ほぼ二分するように分かれているのです。

 これらの事実が意味することは、例えば次のとおりです。

(1) 前漢鏡が中心となっている甕漢墓は、後漢鏡を伴う箱式石棺の時代より古い。

(2) しかも、前漢鏡を出土する須久岡本遺跡などの博多湾岸の甕棺墓遺跡は、後漢鏡が混じっていないことから、例え日本における伝世期間を考慮に入れたとしても、後漢鏡が日本に入って来た時代とは重ならなず、もっと古い時代である。(従って卑弥呼の時代より古いはずで、ここを倭人伝に出てくる邪馬壱国であるとする古田 説や、奴国であるとする通説はおかしい)。

(3) 一方、後漢鏡を出土する箱式石棺などの弥生墓は、後漢鏡の中でも紀元後1世紀以内に編年されている形式のものしか含まず、たとえ100年伝世したとしても、卑弥呼の時代に届かない。

(4) 最後に古墳から出土する後漢鏡は、九州と畿内に大きく分かれるため、これを卑弥呼の鏡であるとすると、邪馬壱国は九州・畿内のどちらにあったかを判定することはできない。

(5) さらに、古墳から出土する後漢鏡も、1世紀前後までの鏡が圧倒的多数を占めており、なおかつ中国で後漢鏡が伝世している魏晋墓の例は極めて少ないことから、日本出土の後漢鏡が中国で伝世したとは考えがたく、したがってこれらの鏡を卑弥呼が貰ったと考えるのもやはり疑問がある(岡村秀典氏はこの事実をタテに、「だから三角縁神獣鏡以外に卑弥呼が貰った鏡の候補は考えられない」とさえ言っています)。

 さらにややこしいことに、大多数の考古学者の土器の編年では、九州の西新式と畿内の庄内式は同時代でかつ卑弥呼の時代であると考えられており、九州の西新式は、鏡では後漢鏡の時代ですらなく、「小型倣製鏡の時代」であるとされているようです。(最近の安本美典氏はこの年代観に異を唱えているらしいですが、その根拠は考古学的にナンセンスだという人もいて、このあたりになると現在の私の知識では手におえません。)

 以上で大変大雑把ではありますが、考古学の、それも鏡に問題を絞った場合の複雑な事情がお分かりいただけたかと思いますが、このような矛盾を解消するには、というより、考古学で言われていることのうち、どこまでが信用できる結果で、どこからが単なる説なのかということを見極めるには、個々の内容を個別に検証していく地道な作業が必要です。

 本連載は、非力ながら、この難題に切り込んでいきたいと考えていますので、皆様のするどいツッコミを是非お願いします。



第1章 漢鏡と絶対年代


  (1) 前漢鏡と後漢鏡

 まず漢鏡の分類から始めます。漢は、西暦9〜23年の王莽の新を挟んで前漢と後漢に分かれますが、鏡もそれに合わせて、前漢時代に作られたものを前漢鏡、新と後漢の時代に作られたものを後漢鏡と呼んでいます。
 これらの漢鏡のさらに細かい区分は、模様のタイプによって分けたり、文字がある場合はその文字群に含まれる特徴的な熟語に注目して分けたり様々な流儀がありますが、ここでは、『国立歴史民族博物館研究報告』第55集(1993年12月発行)と第56号(1994年3月発行)の「日本出土鏡データ集成」の分類に従うことにします。
 このデータ集成は、白石太一郎氏を代表とする「日本出土鏡のデータ集成及びその共同利用に関する基礎的研究」として多くの研究者の共同作業により成るものです。
 その中身は、日本の弥生・古墳時代の遺跡から出土したすべての鏡を渡府県別に集計し、一枚ずつ番号を打って、その種類、出土状態、同じ遺跡から出土した他の遺物などを一覧表にしたものです。
 さて、この「日本出土鏡データ集成」による漢鏡の分類は次の通りです。

  前漢鏡                   後漢鏡

a 蟠[虫璃-王]文鏡             A 方格規矩鏡(TLV鏡)
b 重圏彩画鏡               B 獣帯鏡
c 羽状地文鏡(雷文鏡)          C 内行花文鏡
d 草葉文鏡                D 盤龍鏡
e 星雲文鏡                E 位至三公鏡
f 単圏銘帯鏡               F キ鳳鏡
g 重圏銘帯鏡               G 獣首鏡
h 内行花文銘帯鏡             H 画像鏡
i [兀<虫]龍文鏡(四[虫璃-王]鏡)     I 飛禽鏡
j 八禽鏡                 J 唐草文鏡

 これらの名称は、模様のタイプによって分類して名付けたものですが、前漢鏡のf〜hの末尾に「…銘帯鏡」とあるのは、銘文を持った鏡であることを意味しています。
 一方鏡の命名法の一つに銘文に含まれる語句によって命名する流儀もあります。具体的には、「潔精(清)白而事君…」のように「精(清)白」という語を含んでいるものを精(清)白鏡、「内清質以照明…」のように「照明」という語を含んでいるものを照明鏡、「見日之光…」のように「日之光」という語を含んでいるものを「日光鏡」と呼び、さらに前漢鏡のf〜hの呼び方と組み合わせて、「内行花文日光鏡」とか「重圏文清白鏡」などとと呼んだりします。
 また、前漢鏡のhと後漢鏡のCは共に「内行花文」という名称を持っていますが、これらはいずれも内向きの弧からなる模様を持っており、後漢鏡のCは、前漢鏡のhの銘帯が雲雷文帯に変化して成立したものです。しかしこれでは名前が紛らわしいので、前漢鏡のhの方を連弧文鏡と呼ぶ人もいます。
 さて、これらの漢鏡の具体的な年代比定については、岡村秀典氏により、『史林』1984年9月号に前漢鏡の、『国立歴史民族博物館研究報告』第55集に後漢鏡の詳細な分析がされているので今後順次紹介していきたいと思いますが、a〜jとA〜Jは、そのような先行研究によって年代順に並べたものなのです。

  (2) 弥生遺跡の漢鏡出土状況

 さて、鏡それ自体の詳細な分析に進む前に、日本列島での漢鏡の出土状況がどうなっているのか見てみましょう。漢鏡は弥生遺跡からも古墳からも出土していますが、まずは弥生遺跡から見てみます。これらはさらに、

 α 甕棺墓からの出土
 β 箱式石棺又は土壙墓からの出土
 γ 竪穴住居跡からの出土

に分かれますが、αとβすなわち弥生墓から出土した漢鏡の枚数を一覧表にしてみました(分量の関係で、数の多い福岡、長崎、佐賀、大分の4県しか取り上げていませんが、全国の他の地域では、絶対数が少ないうえ、弥生墓からの鏡の出土はすべて一枚ずつなので、以下の議論に影響はありません)。
 左から順に、遺跡名、墓の形態、弥生の土器による相対編年(これは参考として付けました)、前漢鏡より古いとされる多鈕細文鏡の枚数、各種前漢鏡の枚数、各種後漢鏡の枚数、同じ遺跡から出土する倣製鏡の枚数、タイプの不明な鏡の枚数を書き込んであります。また、発掘された状況が不明なため、伝承として知られているだけの場合は遺跡名の左に * を付けておきました。


                     ←− 前漢鏡 −→ ←− 後漢鏡 −→
                     bcdefghi ABCEFGI   
                   多|重羽草星単重内キ|方獣内位キ獣飛∧|倣不
                   鈕|圏状葉雲圏圏花龍|格 行至   不| 
                   細|彩地文文銘銘銘文|規帯花三鳳首禽明|製
   遺跡名      墓制 土器編年 文|画文鏡鏡帯帯帯鏡|矩 文公   ∨| 
  (*=伝承)    (注)      鏡|鏡鏡  鏡鏡鏡 |鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡 |鏡明
---------------------------------------+----------------+----------------+----
【福岡県】               |        |        |
 吉武高木遺跡3号   組合 弥生2  1|         |        |
 三雲遺跡南小路1号  甕棺 弥生3   |11   316 |        | 13
 須玖岡本遺跡D地点  甕棺 弥生3   |  35175 |         |
 三雲遺跡南小路2号  甕棺 弥生3   |   1 120 |         |
 峯遺跡        甕棺 弥生3   |   1    |         |
 須玖岡本遺跡B地点  甕棺 弥生3   |    1   |         |
 隈・西小田13地点23号 甕棺 弥生3   |    1   |         |
 立岩遺跡39号甕棺   甕棺 弥生3   |    1   |         |
 吉武樋渡遺跡62号   甕棺 弥生4   |    1   |         |
 立岩遺跡28号甕棺   甕棺 弥生3   |     1  |         |
 立岩遺跡10号甕棺   甕棺 弥生3   |     33 |         |
 立岩遺跡34号甕棺   甕棺 弥生3   |      1 |         |
 立岩遺跡35号甕棺   甕棺 弥生3   |      1 |         |
 東小田・峯遺跡    甕棺 弥生3   |      1 |         |
 丸尾台遺跡      甕棺 弥生4   |      3 |         |
 須玖岡本遺跡B地点  甕棺 弥生4   |        |1       |
 井原鑓溝遺跡     甕棺 弥生4   |        |19       |
 立石遺跡       甕棺 弥生4   |        | 1      |
 立石遺跡       甕棺 弥生4   |        | 1      |
 飯氏遺跡群2区    甕棺 弥生5   |        |  2     |
*須玖岡本遺跡D地点  甕棺 弥生4/5 |        |    1   |
 宝満尾遺跡4号    土壙 弥生5   |      1 |         |
 平原遺跡       割竹 弥5/古墳 |       1|32 1     | 5
 上り立遺跡      箱式 弥生    |       1|         |
 五穀神社遺跡     箱式 弥生5   |        |1       |
 馬場山遺跡S5号   箱式 弥生5   |        |1       |
 汐井掛遺跡4号    箱式 弥5/庄内 |        |1       |
 高津尾遺跡17区13号  土壙 弥5/古墳 |        |1       |
 高津尾遺跡16区北40  土壙 弥5/古墳 |        |1       |
 亀の甲遺跡95号    箱式 弥生    |        |1       |
 上所田遺跡(2)     石蓋 弥生5   |        | 1      |
 郷屋古墳2号     箱式 庄内-古墳 |        | 1      |
 上所田遺跡(1)     石蓋 弥生4/5 |        |  1     |
 笹原遺跡       箱式 弥生4/5 |        |  1     |
 谷頭遺跡       箱式 弥生4/5 |        |  1     |
*平ノ隈遺跡      箱式 弥生5   |        |  1     |
 曰佐原遺跡E群15号  土壙 弥生5   |        |  1     |
 後山遺跡1号     箱式 弥生5   |        |  1     |
 原田遺跡第1地点A  土壙 弥生5   |        |  1     |
 向田遺跡7号     箱式 弥生5   |        |  1     |
 前田山遺跡1区9号  箱式 弥生5   |        |  1     |
 宮原遺跡3号     箱式 弥生5   |        |  2     |
 高島遺跡S−1号   箱式 弥生5   |        |  1     |
 汐井掛遺跡6号    箱式 弥5/庄内 |        |  1     |
 汐井掛遺跡203号   土壙 弥5/庄内 |        |  1     |
 汐井掛遺跡175号   組合 弥5/庄内 |        |  1     |
 平塚古墳       箱式 弥生/庄内 |        |  1     |
 三雲遺跡イフ地区4号 箱式 弥生/庄内 |        |  1     |
 三雲遺跡寺口地区2号 箱式 弥生/庄内 |        |  1     |
*釜蓋?        土壙 弥生    |        |  1     |
 岩屋遺跡       箱式 弥生5   |        |   1   4|1
 原田遺跡第1地点C  箱式 弥生5   |        |    1   |
 平遺跡        箱式 弥生5   |        |    1   |
 馬場山第41号     土壙 弥生5   |        |    1   |
 石ヶ坪土壙墓2号   箱式 弥生5   |        |     1  |
 酒殿宮崎遺跡     箱式 弥生5   |        |     1  |1
 汐井掛遺跡28号    組合 弥5/庄内 |        |      1 |
---------------------------------------+----------------+----------------+----
【長崎県】               |        |         |
*エーガ崎遺跡     箱式 弥生    |      1 |         |
 塔ノ首遺跡4号    箱式 弥生5   |        |1       |
 下ガヤノキ遺跡F地点 箱式 弥生3/4 |        |  2     | 2
 栢ノ木遺跡2号    箱式 弥生3/4 |        |  1     |
---------------------------------------+----------------+----------------+----
【佐賀県】               |        |         |
 本村籠遺跡      甕棺 弥生2  1|         |        |
 宇木汲田遺跡     甕棺 弥生2  1|         |        |
 二塚山遺跡15号    甕棺 弥生3   |      1 |         |
 田島遺跡6号     甕棺 弥生3   |      1 |         |
 六の幡遺跡29号    甕棺 弥生4   |      1 |         |
 五本谷遺跡76号    甕棺 弥生4   |      1 |         |
 三津永田遺跡105号  甕棺 弥生4   |       1|         |
 桜馬場遺跡      甕棺 弥生4   |        |2       |
 三津永田遺跡104号  甕棺 弥生4   |        | 1      |
 上志波屋遺跡     箱式 弥生    |      1 |         |
 椛島山遺跡1号    箱式 弥生    |      1 |         |
 三津永田遺跡     甕棺 弥生4   |      1 |         |
 城原三本谷北遺跡   箱式 弥生    |        |1       |
 椛島山遺跡2号    箱式 弥生    |        |1       |
 松葉遺跡       箱式 弥生    |        |1       |
 五本谷遺跡29号    土壙 弥生    |        | 1      |
 花浦遺跡       箱式 弥生    |        |  1     |
 みやこ遺跡SP305 箱式 弥生5   |        |  1     |
 坊所一本谷遺跡    箱式 弥生    |        |  1     |
 二塚山遺跡26号    土壙 弥生    |        |  1     |
 南角遺跡       土壙 弥生    |        |  1     |
 西一本杉SP009   割竹 弥生/庄内 |        |      1 |
---------------------------------------+----------------+----------------+----
【大分県】               |        |         |
 草場遺跡       箱式 弥生    |        |1       |
 本丸遺跡       石蓋 弥生/庄内 |        |  1     |
 赤塚方形周溝墓    箱式 弥生/庄内 |        |       1|

注)墓制欄の略号の意味は次のとおり:組合=組合式木棺,割竹=割竹式木棺,箱式=箱式石棺,石蓋=石蓋土壙墓


 この表を見ると次の事実がわかります。

 ア 複数の鏡が出土した弥生墓においては、福岡の平原遺跡を除いて、前漢鏡と後漢鏡が混合している例は存在しない。しかも平原の場合も、混入している一枚の前漢鏡は前漢末期のキ龍文鏡である。
 イ キ鳳鏡で有名な須玖岡本遺跡D地点では、問題のキ鳳鏡だけが伝承であり、アの統計的な事実からすると、これは誤伝と考えざるを得ない。また、須玖岡本遺跡にはB地点という別の出土例が2例あり、このうちの弥生 期の方ならキ鳳鏡が出土してもアと矛盾がなく、従ってB地点からの出土をD地点からと取り違えたという可能性が十分ある。
 ウ 甕棺墓からの出土例は前漢鏡のものと後漢鏡のものに分かれるが、箱式石棺及び土壙墓からの出土例の場合はほとんどが後漢鏡で、前漢鏡は、あっても末期の前漢鏡ばかりである。この事実は、表の相対編年で「甕棺墓=弥生1〜2=旧、箱式石棺=弥生3〜4=新」となっている時間的順序と矛盾しない。

  (3) 漢鏡の絶対年代

 前回は漢鏡を次のように分類しました。

   前漢鏡             後漢鏡

 a 蟠[虫璃-王]文鏡       A 方格規矩鏡
 b 重圏彩画鏡         B 獣帯鏡
 c 羽状地文鏡         C 内行花文鏡
 d 草葉文鏡          D 盤龍鏡
 e 星雲文鏡          E 位至三公鏡
 f 単圏銘帯鏡         F キ鳳鏡
 g 重圏銘帯鏡         G 獣首鏡
 h 内行花文銘帯鏡       H 画像鏡
 i [兀<虫]龍文鏡        I 飛禽鏡
 j 八禽鏡           J 唐草文鏡

 今回はこれらの絶対年代についてです。
 岡村秀典氏は、この発言最後の参考文献の[1][2]において、これらのうち a、d〜i、A〜Dを取り上げ、文様の違いに注目してさらに細分して編年していますが、ここでは文様の変遷にかかわる主観的な部分と、出土遺跡の年代からわかる客観的な部分を分離し、後者の絶対年代に関わる「事実」の部分のみを列挙していくことにします。

 まずaの蟠[虫璃-王]文鏡については、次のような中国における出土状況があります。

(1) aを出土した湖北雲夢睡虎地十一号墓は、副葬された簡牘から BC217年と見られる。

(2) aには「脩相思 毋相忘 …」という銘文を持つ鏡があるが、これは本来なら「長相思…」とあるべきところを、淮南王の安が父の名を諱んで「長」を「脩」に改めたもので、その在位期間である BC164〜BC122年の間に製作年代が特定される。

(3) aの出土した安徽阜陽双古堆二号墓には、「十一年女陰侯」銘の漆器を伴い、これが BC169年に比定されている。

(4) aを出土した湖南長沙馬王堆一号墓は、埋葬年代が BC168年以降数年と推定される。

(5) aを出土した河北満城二号墓は、埋葬年代が BC118〜104年の間に比定できる。

 次に、bの重圏彩画鏡とcの羽状地文鏡は、日本で出土する中国鏡の中で最古のものですが、福岡県糸島郡前原町三雲遺跡から出土した各一枚ずつがあるだけです。これらは江戸時代の1822年に偶然発見された甕棺(1号墓)から出土したものを青柳種信が模写したものと、1974〜1975年にかけて福岡教育委が調査した際に若干の断片が発見されたのみですが、[3]によると、bの高く鋭い縁や、cの雷文の細かい繰り返しや四方に配された円座乳(ドーム状の突起部分の回りをリング状に囲ったデザイン)など、戦国鏡の特徴を持っており、戦国時代から前漢初期にかけての鏡と考えられています。

 dの草葉文鏡については次のとおりです。

(1) dと共伴する銅銭の状況を見ると、半両銭のみと共伴する墓と、半両銭及び五銖銭と共伴する墓と、五銖銭のみと共伴する墓があり、五銖銭の鋳造は BC118年に始まる。

(2) 河北満城一号墓では半両銭及び五銖銭と共に出土するが、この墓は BC113年に没した中山王勝の墓とされている。

 また、eの星雲文鏡は、乳が円座乳タイプのものをI式、乳が四葉文と呼ばれる丸い8つの葉に囲まれたものをII式と分けますが、中国の遺跡における共伴関係を見ると、例外なく、I式はdの草葉文鏡と共伴し、II式はf〜hの異体字銘帯鏡と共伴しています。

 次はf〜hの異体字銘帯鏡です。岡村氏は、f〜gのような分類の代わりに、銘の字体による分類を行なっており、ここでは氏に従って、f〜hを区別せずに一緒にして考えることにします。

(1) この鏡が出土した江蘇[干β]江胡場五号墓では、被葬者が BC71年に死亡し、翌年に埋葬されたことが、共伴した木牘から分かる。

(2) この鏡が出土した河北定県40号墓は、五鳳二(BC57)年の紀年をもつ竹簡が出土し、また金縷玉衣が発見されたことから、BC57年に没した中山王修の墓と考えられる。

(3) 居摂元(AD6)年の紀年を持った鏡がある。

 また、[1][2]によれば、iの[兀<虫]龍文鏡については次のとおりです。

(1) BC45年に没した広陽頃王劉建を葬る北京市大葆台一号墓には、hの内行花文銘帯鏡とともに副葬されている。

(2) f〜hの異体字銘帯鏡や後漢鏡であるAの方格規矩鏡やBの獣帯鏡と共伴している例がある。

 また、後漢鏡からは、いよいよ紀年鏡が出てきて年代の比定がより確かになります。
 Aの方格規矩鏡について、[1][2]によると、次のような時代特定がされています。

(1) 銘文に、他の漢鏡ならば「漢有善銅」とあるところが「新有善銅」となっていたり、「王氏作鏡四夷服多賀新家人民息」と書かれているなど、王莽の新の時代(AD9〜23)に作られたことがわかるものがある。

(2) 始建国天鳳二(AD15)年の紀年を持つ鏡がある。

(3) AD5年までの紀年を持つ遺物と共伴する鏡や、AD9年までの紀年を持つ遺物と共伴する鏡がある。

 Bの獣帯鏡については、紀年鏡として、(1)永平七(AD64)年鏡と、(2)元和三(AD86)年鏡の2面が知られています。

 Cの内行花文鏡については、紐のまわりの文様の違いによって、(α)四葉座内行花文鏡、(β)蝙蝠座内行花文鏡、(γ)円座内行花文鏡 の3つに分類されていますが、それらの年代が判明する例は次のとおりです。

(1) 永平七(AD64)年鏡の紀年を持つαの鏡が存在する。

(2) 年代が判明している墓から発掘された鏡がいくつかある。具体的には、125年の紀年をもつ石碑や、133年の紀年を持つ朱書陶罐のある墓から出土したαと、それぞれ 104、132、167、190、191年の紀年をもつ朱書陶罐(又は題記)のある墓から出土したβがある。

(3) 紀年を持つ他の遺物と共伴する墓から出た鏡がいくつかある。遺物が複数共伴する場合は最新の紀年のものを挙げると、BC10、AD8、9、68、69年の遺物と共伴するα、77、94、105年の遺物と共伴するβ、AD71年の遺物と共伴するγがある。

 Dの盤龍鏡は紀年を持ちませんが、AD94年の紀年を持った遺物と蝙蝠座内行花文鏡を共伴する墓や、105年の紀年を持った遺物と蝙蝠座内行花文鏡を共伴する墓があります。

 これ以降は[4]によりますが、Eの位至三公鏡は、鏡の銘に「位至三公」の四文字があることからこの名がありますが、(1)安徽省蕪湖三国墓、(2)湖北省随県唐鎮三号漢魏墓、(3)湖南省[林β]州市馬家坪六朝墓、(4)江西省瑞昌馬頭西晋墓から出土している例があることから、後漢〜西晋代の鏡であると考えられています。

 Fのキ鳳鏡については、元興元(105)年と永嘉元(145)年という2例の紀年鏡が知られています。

 Gの獣首鏡は、紀年鏡が多数存在しており、AD156(2例)、164(2例)、166、167、169、174、178、259、260(2例)年の計12例が知られています。

 Hの画像鏡は、紀年鏡ではありませんが、浙江省紹興四家郷付近で、AD217、220、222、238、256、266、267、277年の紀年を持った鏡群と共に多数の画像鏡が出土しているほか、漢墓や西晋墓から出土している例が存在します。

 Iの飛禽鏡は、Eでも出てきた湖北省随県唐鎮三号墓からも出土しています。

 Jの唐草文鏡は、洛陽の晋墓からの出土例があります。

 以上の結果を表にすると、次のようになります。ただし各鏡ごとに、上記で年代の判明した例がある年次(10年刻み)のところに●印を付けておきました。


------+--------------------++-----------------------------+
   |    前漢鏡    ||      後漢鏡      |
   +--+--+--+--+--+--+--++--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+
   |蟠|重|羽|草|星|異|キ||方|獣|内|盤|位|キ|獣|画|飛|唐|
   |チ|圏|状|葉|雲|体|龍||格|帯|行|龍|至|鳳|首|像|禽|草|
   |文|彩|地|文|文|字|文||規|鏡|花|鏡|三|鏡|鏡|鏡|鏡|文|
   |鏡|画|文|鏡|鏡|銘|鏡||矩| |文| |公| | | | |鏡|
   | |鏡|鏡| | |帯| ||鏡| |鏡| |鏡| | | | | |
西暦 | | | | | |鏡| || | | | | | | | | | |
------+--+--+--+--+--+--+--++--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+
  220| |戦|戦| | | | || | | | | | | | | | |
BC 210|●|国|国| | | | || | | | | | | | | | |
  200| |・|・| | | | || | | | | | | | | | |
------+--+前+前+--+--+--+--++--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+
  190| |漢|漢| | | | || | | | | | | | | | |
  180| |初|初| | | | || | | | | | | | | | |
  170| ||||| | | | || | | | | | | | | | |
  160|●||||| | | | || | | | | | | | | | |
BC 150||||||| | | | || | | | | | | | | | |
  140|||↓|↓| | | | || | | | | | | | | | |
  130|||・|・| | | | || | | | | | | | | | |
  120|↓|・|・| | | | || | | | | | | | | | |
  110|●|・|・|●|↑| | || | | | | | | | | | |
  100|↓|・|・| ||| | || | | | | | | | | | |
------+--+--+--+--+|+--+--++--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+
  90| | | | |草| | || | | | | | | | | | |
  80| | | | |葉| | || | | | | | | | | | |
  70| | | | |・|●| || | | | | | | | | | |
  60| | | | |異| | || | | | | | | | | | |
BC 50| | | | |体|●| || | | | | | | | | | |
  40| | | | |字| |●|| | | | | | | | | | |
  30| | | | |と| | || | | | | | | | | | |
  20| | | | |共| | || | | | | | | | | | |
  10| | | | |伴| | || | |●| | | | | | | |
   0| | | | ||| | || | | | | | | | | | |
------+--+--+--+--+|+--+--++--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+
   0| | | | |↓|●| ||●| |●| | | | | | | |
  10| | | | | | | ||●| | | | | | | | | |
  20| | | | | | | ||↓| | | | | | | | | |
  30| | | | | | | || | | | | | | | | | |
AD 40| | | | | | | || | | | | | | | | | |
  50| | | | | | | || | | | | | | | | | |
  60| | | | | | | || |●|●| | | | | | | |
  70| | | | | | | || | |●| | | | | | | |
  80| | | | | | | || |●| | | | | | | | |
  90| | | | | | | || | |●|●| | | | | | |
------+--+--+--+--+--+--+--++--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+
  100| | | | | | | || | |●|●| |●| | | | |
  110| | | | | | | || | | | | | | | | | |
  120| | | | | | | || | |●| | | | | | | |
  130| | | | | | | || | |●| | | | | | | |
AD 140| | | | | | | || | | | | |●| | | | |
  150| | | | | | | || | | | |・| |●| |・| |
  160| | | | | | | || | |●| |・| |●| |・| |
  170| | | | | | | || | | | |・| |●| |・| |
  180| | | | | | | || | | | |・| | | |・| |
  190| | | | | | | || | |●| |↑| | | |↑| |
------+--+--+--+--+--+--+--++--+--+--+--+|+--+--+--+|+--+
  200| | | | | | | || | | | |後| | | |後| |
  210| | | | | | | || | | | |漢| | |●|漢| |
  220| | | | | | | || | | | |・| | |●|・| |
  230| | | | | | | || | | | |三| | |●|三| |
AD 240| | | | | | | || | | | |国| | | |国| |
  250| | | | | | | || | | | |・| |●|●| | |
  260| | | | | | | || | | | |西| |●|●| | |
  270| | | | | | | || | | | |晋| | |●| | |
  280| | | | | | | || | | | ||| | | | |↑|
  290| | | | | | | || | | | ||| | | | |||


《参考文献》
[1] 岡村秀典「前漢鏡の編年と様式」/『史林』67巻5号(1984年9月)
[2] 同「後漢鏡の編年」/『国立歴史民族博物館研究報告』第55集(1993年12月)
[3] 高倉洋彰「前漢鏡にあらわれた権威の象徴性」/同
[4] 樋口隆康「古鏡」/新潮社(1979年)

  (4) 須玖岡本遺跡は「奴国」か? 〜 前漢鏡の岡村編年の検証 〜

 今回から、漢鏡が多数出土するいくつかの遺跡を個別に見ていくことにしましょう。まずは有名な福岡平野の奥部、那珂川と御笠川の間に突き出た春日丘陵の先端にある須玖岡本遺跡を取り上げます。
 明治32(1899)年に大きな石の下から偶然甕棺墓が発見され、その中から銅剣4本、銅矛5本、銅戈1本、ガラス製勾玉1個、管玉12個、ガラス璧の残欠2個とともに、銅鏡の破片が百数十枚発見されました。以来この遺跡は須玖岡本のD地点と呼ばれています。
 この須玖岡本遺跡は、通常倭人伝に出てくる奴国の地に比定されています。それは、すぐ目の前の志賀の島から「漢委奴國王」の金印が出土し、この遺跡の絶対年代が1世紀中頃と考えられていて、『後漢書』に倭奴国が AD57年に朝貢した際印綬を賜ったという記事があることに加え、「倭奴国」を「倭の奴国」と読む説に従ったためと思われます。
 しかしこの比定には重大な疑問点が存在しているのです。それは、この遺跡の年代にかかわる問題です。この遺跡の絶対年代は出土した鏡の年代論によるものですから、まずは出土した鏡の内訳を見てみましょう。梅原末治氏は、出土した鏡の断片を次のような21〜23面の鏡に復元しました。

 (1) 草葉文鏡×3
    (内訳)重圏四乳葉文鏡×2
        方格四乳葉文鏡×1

 (2) 星雲文鏡×5〜6
    (内訳)内行花文星雲鏡×5〜6

 (3) 重圏銘帯鏡×8
    (内訳)重圏精白鏡×2
        重圏清白鏡×3
        重圏日光鏡×3

 (4) 内行花文銘帯鏡×4〜5
    (内訳)内行花文清白鏡×4〜5

 (5) キ鳳鏡×1

 その他不明な断片を含めて最終的には30面前後と推計されています(ただしこの面数については人により若干の違いがあります)。
 さて、前回までの分析によれば、(1)〜(4)は前漢鏡で、その中国における製作年代は、(1)の草葉文鏡が BC100年ごろまで、(2)の星雲鏡と(3)(4)の異体字銘帯鏡が西暦元年ごろまでであることが判明しています。
 ところが(5)のキ鳳鏡だけは後漢鏡で、中国における製作年代も、これらより100年以上も後の AD100〜150年頃であり、これだけが乖離しています。
 したがって、もしこのキ鳳鏡が本当にこの遺跡から出土したものだとすれば、他の鏡は伝世鏡ということになり、この遺跡の年代は2世紀以降ということになりますから、最初に述べた1世紀中頃という絶対年代は成立しないことになります。ところが、このキ鳳鏡がこの遺跡から出土したという伝承は、この後発掘された他の漢鏡出土遺跡の状況による統計的な事実によると、その信憑性には大いに疑問があります。
 なぜなら、本連載【2】で掲げた表を見ればわかるように、

 ア 異体字銘帯鏡までの前漢鏡(b〜h)と後漢鏡が共伴している遺跡は他に存在していない。

 イ 甕棺墓から出土したキ鳳鏡の例は他に存在しない。

ということがわかるからです。従って、このキ鳳鏡が須玖岡本D地点から出土したという伝承は、やはり誤伝と考えた方がよさそうです。
 従って(1)〜(4)までの前漢鏡だけが信頼できる出土鏡ということになりますが、そうなると今度は、この遺跡を(後漢書に出てくる倭奴国であると考えるのは特に問題ないのですが)魏志倭人伝に出てくる奴国でもあるとする説はあやしくなります。
 なぜなら、倭人伝によれば、奴国は3世紀卑弥呼の時代、すなわち中国の三国時代に戸数二万の大国だったわけですが、それならば、前漢鏡は大量に出土しているのに、なぜ前漢と三国時代の間の王朝である後漢の鏡が出土しないのでしょうか。特に後漢鏡の中でも日本で出土の多い方格規矩鏡や内行花文鏡が一枚も混じっていないのは不可解です。
 このように須玖岡本遺跡を倭人伝に出てくる奴国の地と見做すのは、鏡の編年問題から見ると大いに問題があるのです。同じ理由で、ここを倭人伝の他の大国である戸数五万の投馬国や戸数七万の邪馬壹国に比定する説も疑問です。
 いずれにせよ、この遺跡から国名を記した遺物が出土していない以上、安易に文献の、それも一解釈に過ぎない結果を利用するのは避けた方が安全でしょう。
 では、この遺跡の年代はどうやって推計されているのでしょうか。

 ここでやや煩雑になりますが、岡村秀典氏による異体字銘帯鏡の詳細な編年による最新の鏡の年代論を紹介しておきましょう。
 岡村氏は、異体字銘帯鏡をその銘の字体によってI式〜VI式の6つのタイプに分け、各タイプと銘文内容や紐まわりの文様との関係や、中国の墓における共伴関係を調べて更に細かい編年を行なっています。
 まず、その全貌を紹介しましょう。
 岡村氏は、樋口氏らの研究に従って、鏡に刻まれた銘文の字体の違いが年代の違いを表わしているという仮説を立てます。テキストデータでは字体の違いがお見せできないのが残念ですが、異体字銘帯鏡には、各種の字体のうち、d〜jというアルファベットで識別された各字体が使われています。
 岡村氏は、土器の型式編年と同じような作業仮説によって、銘文の字体がd→jの順番に変遷していったものと見做し、それに合わせて異体字銘帯鏡をI式→VI式と命名していきます。すなわち字体dを持つものをI式、e又はfを持つものをII式、gを持つものをIII式、hを持つものをIV式、iを持つものをV式、jを持つものをVI式と呼びます。
 このような編年は、もちろん一作業仮説に過ぎません。ですからこれだけでは客観的なものとは言えないので、次にこの作業仮説を客観的なデータから検証してみることにします。
 そのために、銘文に使われている語句、鈕回りの模様の種類、他のタイプや他の鏡との共伴関係、紀年などによる絶対年が判明している例について、それらを一覧表にして比べてみました。


----------+--+--+----+--+--+---+
 タイプ |I|II| III|IV|V|VI |
----------+--+--+----+--+--+---+
     | |e|  | | |  |
  字体 |d|・| g |h|i|j |
     | |f|  | | |  |
----------+--+--+----+--+--+---+
  銘文 G|○|×| × |×|×|× |
  〃 C|○|○| ○ |×|×|× |
  〃 D|○|○| ○ |×|×|× |
  〃 E|×|○| ○ |○|○|○ |
  〃 F|×|×| × |○|○|× |
  〃 H|×|×| × |×|○|○ |
----------+--+--+----+--+--+---+
 四葉文a2|○|○| × |×|×|× |
  〃 c|×|×| × |×|○|○ |
  〃 d|×|×| × |×|○|○ |
----------+--+--+----+--+--+---+
  共伴  | | | 互いに共伴 |  |
     +--+--+----+--+--+---+
   関係 | | 星雲II | | |  |
----------+--+--+----+--+--+---+
  絶対  | | |BC71| | |AD6|
   年代 | | |BC57| | |  |
----------+--+--+----+--+--+---+

 ここで、「銘文」欄は、各タイプごとに銘文中にどのような語句が使われているかを示したものです。次のC〜Hの6種類の語句のうち、使われている例が存在する場合を○で、使われている例が無い場合を×で示しています。

C 「見日之光」又は「長毋相忘」の語句を持つもの(いわゆる日光鏡)。
D 「潔精白而事君」の語句を持つもの(いわゆる精白鏡)。
E 「内清質以昭明」の語句を持つもの(いわゆる昭明鏡)。
F 「日有熹」の語句を持つもの(いわゆる日有熹鏡)。
G 「清沮銅華以為鏡」の語句を持つもの。
H 「[シ東]治鉛華清而明」の語句を持つもの。

 次の「四葉文」欄は、各タイプごとに紐まわり(紐座)にどのような種類の文様があるかを示したものです。紐座の文様には四葉文とよばれる文様がいくつかあります。
 a2はそれぞれの葉の両端が独立して巻き込んで珠文状になったもの、cは巻き込みはないが葉の間に細線で子葉を入れたもの、dは同じく巻き込みはなく葉と葉の間に銘文を入れたものですが、このそれぞれの文様について、使用例がある場合には○、使用例がない場合には×をつけています。なお、これらの四葉文の中で、a2は、前回星雲文鏡を分類したときの星雲文鏡II式の乳の四葉文と同じです。
 次の「共伴関係」欄の「互いに共伴」というのは、中国の墓で、異体字銘帯鏡のIII式とIV式、IV式とV式、III式とV式の共伴例がそれぞれ存在していることを意味しています。
 また「星雲II」というのは、星雲文鏡II式と異体字銘帯鏡II式の共伴例及び、星雲文鏡II式と異体字銘帯鏡III式の共伴例があることを示しています(これから星雲文鏡II式の時代も特定できます)。
 最後の「絶対年代」欄は、絶対年代の判明している例として前回挙げた(1)BC71年の例と(2)BC57年の例が異体字銘帯鏡III式、(3)AD6年の例が同VI式であることを示しています。

 以上の検証により、字体の差が年代の差を表わし、それがd〜jの順に変化して来たとする作業仮説には特に矛盾もなく、妥当なものだと考えることができます。
 少なくとも、紀元前1世紀中頃の絶対年代をもつIII式や、それと共に星雲文鏡と共伴例を持つII式、また紐座がその星雲文鏡の乳の四葉文のa2と共通するI式は、絶対年代として紀元元年付近の例を持つVI式より古いことは確かでしょう。

 ここで話を須玖岡本遺跡D地点出土鏡に戻すと、まず星雲文鏡については、タイプの判明しているものはすべてII式であることがわかっています。また異体字銘帯鏡については、タイプが判明しているのはすべてII式又はIII式であることもわかっています。
 以上の結果によれば、須玖岡本遺跡D地点出土の星雲文鏡や異体字銘帯鏡の製作年代の上限は、紀元前1世紀の中頃まで遡ることになります。
 さて、そうなると、須玖岡本遺跡D地点の絶対年代を鏡から考えると、いつごろになるのでしょうか。出土した鏡の中国における製作年代はすべて紀元前1世紀中頃を下らないということなのですから、それが中国から日本にもたらされ、日本列島で使用されて、それから持ち主の死によって墓に埋葬されるまでのタイムラグをα年とすれば、「紀元前1世紀中頃+α年」ということになります。
 問題は、αをどう見積もるか、ということになりますが、これについては確かな根拠はあまりないようです。例えば、杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』p.99 では、

》 日本においては、弥生式土器について、その年代を決定する資料がない。ここで、
》年代の明らかな中国の銅鏡を利用することとなるのである。前記の銅鏡が中国本土
》で鋳造され、楽浪郡にもたらされた。そして、それが北九州地方の首長たちの宝器
》となり、さらにかれらが死亡することによって、始めて甕棺としての弥生式土器と
》関係が生じたわけである。その間、銅鏡が経過した時間を一〇〇年としようと思う。
》そうすると、須玖式土器の年代は西暦紀元から西暦一〇〇年の間ということとなる
》わけである。

と書いているだけで、氏の場合は α=100年としていますが、その根拠も妥当性についの検証もなく、この須玖岡本遺跡のような須玖式甕棺墓+前漢鏡の遺跡(すなわち弥生中期後半)の絶対年代を1世紀中頃と考えているわけです。
 ですから実際は、これより繰り上がる、あるいは繰り下がる可能性も十分あるわけです。ただし、前にも説明したように、この甕棺墓は、後漢鏡を同伴していないので、時代を三国時代まで繰り下げることは無理であろうと考えられ、これが一応の下限になると思います。
 これ以上細かい絶対年代を知ろうとすれば、他の青銅器や土器の編年と、古墳時代の編年との繋がりなどで、この幅が縮められるかどうかにかかってくるのです。

  (5)「青龍三年」鏡は中国製? 〜 方格規矩鏡の岡村編年 〜

 a はじめに

 97年の夏に、大阪府高槻市の安満宮山古墳から、京都府の大田南5号墳に次いで2枚目の「青龍三年」銘方格規矩鏡(2号鏡。以下青龍三年鏡と呼ぶ。)が出土し、様々な意見が新聞等で紹介されました(本稿【5】下の参考文献[11][12]等参照)。
 その多くは「方格規矩鏡は中国からも出土する鏡式であり、青龍三(235)年という魏の年号を持つため中国製と考えられ、従ってこれと同伴している三角縁神獣鏡の中国製説も裏づけられた」とするものでした。
 今回は、この説の妥当性を、方格規矩鏡の編年による年代論から検証してみることにしましょう。なお、本稿の内容は、[13]の内容を若干書き換えたものです。

 b 方格規矩鏡の岡村編年

 岡村氏は[4]で、9種類の前漢鏡を、それぞれ次のような括弧に示す複数のタイプに細分類しました(岡村氏の呼び方に従って方格規矩鏡を方格規矩四神鏡と呼ぶことにします)

 蟠[虫璃-王]文鏡(I・II・III式)
 渦状[兀<虫]文鏡(I・II式)
 草葉文鏡(I・IIA・IIB式)
 [虫璃-王]龍文鏡(I・II式)
 星雲文鏡(I・II式)
 異体字銘帯鏡(I・II・III・IV・V・VI式)
 方格規矩四神鏡(I・II・III・IV式)
 獣帯鏡(I・II・III式)
 [兀<虫]龍文鏡(I・IIA・IIB式)

 また、[5]では、7種類の後漢鏡を次のように細分類しています。

 方格規矩四神鏡(VA・VB・VC・VI・VII式)
 細線式獣帯鏡(IVA・IVB・IVC・V・VI式)
 浮彫式獣帯鏡(I・II・III式)
 盤龍鏡(IA・IB・IIA・IIB・III式)
 四葉座内行花文鏡(I・II・III・IV・VA・VB式)
 蝙蝠座内行花文鏡(I・II式)
 円座内行花文鏡(I・II・III式)

 方格規矩四神鏡と(細線式)獣帯鏡は前漢鏡と後漢鏡の両方に出て来ますが、これらの鏡は、前漢〜新〜後漢にまたがって鋳造されたと考えられているからです。
 これらのうち、青龍三年鏡の鏡式である方格規矩四神鏡の編年は、[4][5]によれば以下のとおりです。
 岡村氏は周縁文様の違いによって、前漢代の方格規矩四神鏡を[4]で次のように編年しています(次の[5]に合わせるため、周縁の名称等を一部変更しました)。

 I式=周縁が素文のもの。
 II式=周縁がその中央に一条の文帯を持つ凹帯文のもの。
III式=周縁が獣、唐草、雲a1、鋸a・bのもの。
 IV式=周縁が雲a2のもの。

 ここで、周縁模様がどんなものであるかを言葉で説明するのは難しいのですが、I式の「素文」というのは飾りが何もないもので、II式の「文帯」というのは、


                /\/\/\/\/\/
 /\/\/\/\/\/ 又は /\/\/\/\/\/
 

のようなギザギザ模様のことで、III式の「鋸」というのは、

 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

のような模様のこと、そして「鋸a」と「鋸b」というのは、鏡の外周から内周に向かって

 鋸a:極太線→鋸→二重文帯→太線→鋸
 鋸b:極太線→二重文帯→太線→鋸

の文様が層をなしている文様のことです。
 また[5]では、周縁文様の他に、主文(=方格と周縁の間の模様で、TLとVの間に神獣を一体ずつ、計8個配置した文様)の違いにも注目して、後漢代の方格規矩四神鏡を、次のように編年しています。

 IV式=周縁が雲1、鋸a1で、主文が四神と瑞獣からなる8像に小像や渦文を加えたもの。
VA式=周縁がIV式と同じで、主文が四神と瑞獣からなるもの。
VB式=周縁が雲1、鋸a1・a2・bで、主文が四神と瑞獣の不完全な組合せからなるもの。
VC式=周縁が鋸a1・a2・b、雲2で、主文が8像の鳥又は渦文のもの。
 VI式=周縁が鋸c1・c2で、主文がXC式と同じもの。
VII式=周縁が鋸dで、主文がVC式と同じか又は主文ナシのもの。

 [4]と[5]でIV式の定義が異なっていますが、[4]では鋸a1・a2を区別しないで鋸歯文aと一まとめにしており、[5]ではその辺りの変更がなされたのかもしれません。ちなみに、[5]における「鋸」文についての各名称は、鏡の外周から内周に向かって

 鋸a1:極太線→鋸→二重文帯→太線→鋸
 鋸a2:極太線→鋸→一重文帯→太線→鋸
 鋸b:極太線→文帯→太線→鋸
 鋸c1:極太線→二重文帯→太線→鋸
 鋸c2:極太線→一重文帯→太線→鋸
 [14]でも鋸d:極太線→細線→鋸

の文様が層をなしている文様を意味します。

 岡村氏は、他の鏡の編年との対比や実年代の判明している出土物との共伴関係などから、実年代を次の表([1],[2]による)のように推定しています。

(表1)前漢鏡の編年


  年 代  |      BC150     BC100   BC50    BC/AD  |
--------------+------------+------------+--------+--+-----+-----+
漢 鏡 編 年|  1期  |  2期  |  3期  |  4期  |
--------------+------------+------------+------------+------------+
蟠 チ 文 鏡| I   II |III     |      |      |
渦 状 キ 文 鏡|      |  I  II|      |      |
草 葉 文 鏡|      |I IIA IIB|      |      |
チ 龍 文 鏡|      |I    II|      |      |
星 雲 文 鏡|      |     I| II    |      |
異体字 銘帯鏡|      |      |I II III IV| V VI   |
方格規矩四神鏡|      |      |      |I II III IV|
獣  帯  鏡|      |      |      |I II III  |
キ 龍 文 鏡|      |      |      |I IIA IIB |
--------------+------------+------------+------------+------------+

(表2)後漢鏡の編年


  年 代   BC/AD     AD50     AD100     AD150
----------------+-----+-----+------------+------------+
漢 鏡 編 年 |   |    5期    |  6期  |
----------------+-----+-----+------------+------------+
方格 規矩 四神鏡|  VI   VA  VB  VC  VI   VII|
細線 式 獣 帯 鏡|      IVA  IVB  IVC  V   VI|
浮彫 式 獣 帯 鏡|         I  II      III|
盤   龍   鏡|      IA  IB     IIA IIB III|
四葉座内行花文鏡|  I II   III IV    VA   VB|
蝙蝠座内行花文鏡|               I   II|
円 座内行花文鏡|        I II    III    |
----------------+-----+-----+------------+------------+

 さて、安満宮山から出土した問題の青龍三年鏡は、周縁部は外周から内周に向かって極太線→鋸→二重文帯→太線→鋸の文様が層を成しているので、これは先ほどの定義では鋸a1に該当します。さらに、主文は四神・瑞獣像の他に、Lの内側とその上部に小像や渦文が見られることから、岡村編年で[5]のIV式に当たると考えられます。
 ところが、表2に従えば、中国では方格規矩鏡のIV式は既に西暦一世紀前半までで製作が終了しています。つまり、「青龍三年」という紀年を持つこの鏡と同じ型の鏡は、中国では既に、青龍三(235)年には作られていなかったはずなのです。

 c 岡村編年の検証

 前回の結果は重大なものですから、方格規矩鏡に関する岡村氏の編年が本当に正しいのかどうかが当然問題になります。ただし、ある文様が別の文様に次第に変化していったという仮説そのものの妥当性を検討しようとしても、実際に岡村編年をこの観点から批判している[14]のように、どうしても主観的議論に陥らざるを得なくなります。そこで、ここでは「文様の変化の妥当性」のような「主観的な」議論には一切立ち入らず、紀年や出土した遺跡に同伴していた年代の判明する出土物との関係のみに注目するという「客観的な」方法のみを用いて岡村編年の妥当性を検証してみることにします。

 [14]によると、方格規矩四神鏡のうち、銘文等によって製作年が直接わかる例として、次のア、イの2例が知られています([4][5]による。以下同じ)。

ア III式の鏡に「始建国天鳳二(AD10)年」の紀年鏡がある。
イ III式とIV式に、通常であれば「漢有善銅」とあるべき銘文が「新有善銅」となっている鏡があり、王莽の新の時代(AD9〜23)の製作であると考えられる。

 一方、紀年銘を持った他の遺物と共に出土した例として次の二例があります。

ウ IV式の鏡2面が、BC85〜AD9年にわたる紀年銘を持つ漆器九個と共伴している(平壌石岩里194号墓)。

エ IV式とVB式各一面が、BC85年又は AD5年に当たる紀年銘を持つ漆器三個と共伴している(平壌貞梧洞1号墓)。

 また、銘文等によって製作年が推定できる他の種類の鏡と共伴した例は、次のオ、カのとおりです。

オ II式とIII式に、異体字銘帯鏡III式と共伴している遺跡が三例報告されている(河南洛陽の焼溝M41、M59B、30工区M14)。そして異体字銘帯鏡III式は、次の出土例から、紀元前一世紀中頃の鏡と考えられる。
   (1) 被葬者が BC72年に埋葬された墓(江蘇[于β]江胡場5号墓)からの出土
   (2) 五鳳二(BC57)年の紀年を持つ竹簡が出土して中山王(BC56年没)の墓と確認された河北定県40号墓からの出土

カ 方格規矩四神鏡と、四葉座内行花文鏡の間に、次表のような共伴例がある:

  (表3)鏡式間の共伴状況


      ‖    方  格  規  矩  四  神  鏡    ‖
      ‖                          ‖
      ‖ I | II | III| IV | VA| VB| VC| VI | VII‖
  =======+====+====+====+====+====+====+====+====+====+
     I‖  |  |  | α |  |  |  |  |  ‖
  四 ---+----+----+----+----+----+----+----+----+----+
  葉  II‖  |  |  |  |  | β | γ |  |  ‖
  座 ---+----+----+----+----+----+----+----+----+----+
  内 III‖  |  |  |  |  |  |  |  |  ‖
  行 ---+----+----+----+----+----+----+----+----+----+
  花 IV‖  |  |  |  |  |  |  |  | δ ‖
  文 ---+----+----+----+----+----+----+----+----+----+
  鏡 VA‖  |  |  |  |  |  |  |  |  ‖
  =======+====+====+====+====+====+====+====+====+====+
                   注)α:平壌石岩里194号墓
                     β:平壌石岩里6号墓
                     γ:江西南昌南郊1号墓
                     δ:陜西宝鶏[金産]車廠墓

  そして、この四葉座内行花文鏡には、そのI、II、III、VA式の鏡の中に、次のような紀年鏡あるいは紀年を持つ遺物と共伴している例がある。

   (1) BC85〜AD9年にわたる紀年銘を持つ漆器9個と共伴するI式の鏡一面(=既出ウ=表3のα)
   (2) BC62、BC28、BC10年に当たる紀年銘を持つ漆器と共伴するI式の鏡一面(江蘇[于β]江宝女[土敦]墓)
   (3) AD8年に当たる紀年銘を持つ漆器2個と共伴するI式とII式の鏡各一面(平壌石岩里9号墓)
   (4) AD45〜69年にわたる紀年銘を持つ漆器四個と共伴するII式の鏡二面(平壌石岩里王[目于]墓)
   (5) AD64年に当たる紀年銘を持つIII式の鏡
   (6) AD54、68年に当たる紀年銘を持つ漆器と共伴するIII式の鏡二面(平壌貞柏里200号墓)
   (7) AD133年に当たる紀年を持つ朱書陶罐と共伴するIII式の鏡一面(陝西戸県朱家堡墓)
   (8) AD125年に当たる紀年を持つ石碑のある墓から出土したVA式の鏡一面(天津武清鮮于[王黄]墓)

  これを一覧表にすると次の表のようになる:

  (表4)四葉座内行花文鏡と絶対年代


   番号|型式|BC100    0    AD100   AD200
   ----|----|--+---------+---------+---------+--
    (1)| I | | ----------    |     |
     |  | |     |     |     |
    (2)| I | |  ----- |     |     |
     |  | |     |     |     |
    (3)|I,II| |     |・    |     |
     |  | |     |     |     |
    (4)| II | |     |  --  |     |
     |  | |     |     |     |
    (5)| III| |     |   ・ |     |
     |  | |     |     |     |
    (6)| III| |     |  --  |     |
     |  | |     |     |     |
    (7)| III| |     |     | ・   |
     |  | |     |     |     |
    (8)| VA| |     |     | ・   |

 また、[4][5]に掲載されているもので、方格規矩四神鏡と共伴している鏡は、ア〜カのものも含めて次のとおりです。

●方格規矩鏡I式と同伴するもの
 異体字銘帯鏡V式(湖南長沙五里牌M12)
 キ龍文鏡I式(湖南長沙楊家山M304)

●方格規矩鏡II式と同伴するもの
 異体字銘帯鏡III式(河南洛陽焼溝M59B)
 異体字銘帯鏡V式(河南洛陽焼溝M1028A,湖南長沙伍家嶺M211)
 獣帯鏡II式(湖南長沙湯家嶺M1,陜西千陽漢墓,江蘇[目于][目台]東陽M4)
 キ龍文鏡IIA式(河南洛陽焼溝M38A)
   〃  IIB式(湖南長沙湯家嶺M1)

●方格規矩鏡III式と同伴するもの
 異体字銘帯鏡III式(河南洛陽焼溝M41,河南洛陽30工区M14)
 獣帯鏡I式(湖南長沙黄土嶺M51)
 キ龍文鏡I式(湖南長沙黄土嶺M51,河南洛陽焼溝M1005)

●方格規矩鏡IV式と同伴するもの
 方格規矩四神鏡VB式(既出のエ)
 四葉座内行花文鏡I式(既出のウ)

●方格規矩鏡VA式と同伴するもの
 方格規矩四神鏡VII式(江蘇高淳下[土覇]墓)

●方格規矩鏡VB式と同伴するもの
 細線式獣帯鏡IVC式(湖南耒陽M15)
    〃   VI式(〃)
 盤龍鏡IB式(湖南[林β]州奎馬嶺M2,広東南雄M2)
 方格規矩四神鏡IV式(既出のエ)
    〃   VC式(湖南[林β]州M6)
    〃   VI式(浙江紹興漓渚M206)
 四葉座内行花文鏡II式(平壌石岩里M6)

●方格規矩鏡VC式と同伴するもの
 細線式獣帯鏡IVB式(平壌貞柏里M122)
 方格規矩四神鏡VB式(湖南[林β]州M6)
    〃   VII式(河南榮陽CHM1)
 四葉座内行花文鏡II式(江西南昌南郊M1)

●方格規矩鏡VI式と同伴するもの
 方格規矩四神鏡VB式(湖南耒陽M15)

●方格規矩鏡VII式と同伴するもの
 浮彫式獣帯鏡I式(江西南昌丁M1)
 盤龍鏡III式(陜西宝鶏[金産]車廠墓)
 方格規矩四神鏡VA式(江蘇高淳下[土覇]墓)
    〃   VC式(河南榮陽CHM1)
 四葉座内行花文鏡IV式(陜西宝鶏[金産]車廠墓)
 蝙蝠座内行花文鏡I式(〃)

 このようなデータの羅列ではわかりにくいので、岡村氏が編年したすべての前漢・後漢鏡の実年代に関するデータを年表の形に整理してみました。
 この表で、@印は、その年の紀年を持った鏡が存在するか、あるいはその紀年を持つ遺物(複数の遺物と共伴する場合は年代の一番新しいもの)と共伴している例があることを意味し、O印は、その年に@印を持つ他の型式の鏡と共伴している例があることを意味します。


BC200 BC150 BC100 BC50 0 50
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
蟠チ文鏡  | | | | | |
   I  @ | @ | | | | |
   II  | @ | | | | |
   III  | | @ | | | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
渦状キ文鏡  | | | | | |
   I  | | | | | |
   II  O | O | | | | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
草葉文鏡  | | | | | |
   I  | | | | | |
   IIA | | @ | | | |
   IIB | | | | | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
チ龍文鏡  | | | | | |
   I  | | | | | |
   II  | | | | | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
星雲文鏡  | | | | | |
   I  | | O | | | |
   II  | | | @ | | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
異体字銘帯鏡 | | | | | |
   I  | | | | | |
   II  | | | O | | |
   III  | | | @ @| | O |
   IV  | | | O O| | |
   V  | | | O O| | |
   VI  | | | | |@ |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+
キ龍文鏡  | | | | | |
   I  | | | | | O |
   IIA | | | O O| | |
   IIB | | | | | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+


BC100 BC50 0 50 100 150 200
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
方格規矩四神鏡| | | | | | |
   I  | | | | | | |
   II  | O O| | | | | |
   III  | O O| | @ | | | |
   IV  | | |@@ | | | |
   VA | | | | | | |
   VB | | |@O | O | | |
   VC | | |OO | O | | |
   VI  | | |O | | | |
   VII  | | | | O|O O| O |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
細線式獣帯鏡 | | | | | | |
   I  | | | O | | | |
   II  | O O| | | | | |
   III  | | | | | | |
   IVA | | | O | @ | O O | |
   IVB | | | | | | |
   IVC | | |O | | O | |
   V  | | | | O|O O| O |
   VI  | | |O | O|O O| |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
浮彫式獣帯鏡 | | | | | | |
   I  | | | O | O | O | |
   II  | | | | @ |O O| |
   III  | | | | O| | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
四葉座内行花文鏡 | | | | | |
   I  | | @ | @ | | | |
   II  | | |O@ | @ O| O | |
   III  | | | | @ |O @ | |
   IV  | | |(O)注 | O O|O O O O| O |
   VA | | |(O)〃 | O | @ | |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
蝙蝠座内行花文鏡 | | | | | |
   I  | | | | @|@ O| @ |
   II  | | | | @ O| @ | @ @ |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
円座内行花文鏡| | | | | | |
   I  | | | | @ | | |
   II  | | | O | @ | | |
   III  | | | | O | O | O O |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
盤龍鏡    | | | | | | |
   IA | | | | O |@ O | |
   IB | | |O | O O | | |
   IIA | | O | O | | | |
   IIB | | | O | OO @|O O O| O O |
   III  | | | | O O|@ @| O |
--------------+---------+---------+---------+---------+---------+---------+

注)四葉座内行花文鏡のII式、IV式、VA式が共伴している例が1例だけ存在するが(江西南昌南郊M2)、これは埋葬数が6体と例外的に多く(埋葬数が知られている他の例は全て3体以下で、ほとんどが2体以下である)、異なる世代の鏡が混在している可能性が高い。

 厳密には遺跡ごとに個別の史料批判が必要ですが、岡村編年の妥当性に関するおおよその傾向はこの表で知ることができます。これによると、細線式獣帯、蝙蝠座内行花文鏡、円座内行花文鏡、盤龍鏡等の編年はかなり交錯していて、この編年がはたして正しいかどうか大いに疑問を感じます。
 しかし、こと方格規矩四神鏡に関しては、I〜VII式の分類は、ほぼ年代順に並んでおり、問題がないように見えます。従って特に、I〜IV式までの方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないことは、この検証によって一応確かめられたといえるでしょう。

 d 銘文と面径による検討

 岡村氏自身も、方格内の十二支銘が図6のいずれであるか、また鈕周りの四葉文、銘文のタイプ、銘文の句数、等について統計を取って自らの編年を検証しています。
 例えば、銘文を考えてみます。[5]によれば、IV〜VII型の方格規矩四神鏡の銘文は、すべて七言句で、次の3タイプに分類されるそうです。

K 尚方作鏡真大巧 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗 浮游天下敖四海 徘徊神山釆芝草 寿如金石為国保

L 尚方作鏡大毋傷 巧工刻之成文章 左龍右虎辟不祥 朱鳥玄武順陰陽 子孫備具居中央 長保二親楽富昌 寿敞金石如侯王

N 王氏作鏡四夷服 多賀新家人民息 胡虜殄滅天下復 風雨時節五穀熟 長保二親得天力 官位尊顕蒙禄食 伝告后世楽無極

 さて、問題の青龍三年鏡の銘文は次のとおりです。

     青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 寿如金石宜侯王

 これは、明らかにLのタイプと見なせます。一方、[5]によると、IV式ではK、L、Nの3種が併存していますが、VA式以降はほぼ銘文Kに限定され、VI式とVII式には殆ど銘文自体がないそうです。これは前節で周縁と主文からIV式だとする判断が適切だったことを示しているのではないでしょうか。
 一方[6]によれば、中国鏡では殆どが「尚方作」鏡で、民間の姓を持つものは希だそうです。[4]にも前漢鏡の銘文が20種類提示されていますが、そこにも「尚方作」と「王氏作」しか挙げられていません。このことは青龍三年鏡の「顔氏」がかなり特殊であることを示しています([7]では、「顔氏」が周代魯国の名家の後裔で、山東南部から徐州周辺に勢力を持っていたとの注記があります)。

 次に注意すべきは鏡の大きさです。青龍三年鏡の直径は17.4cmということですが、方格規矩四神鏡IV〜VII式の中国出土鏡の直径の分布を見ると、この直径はIV式の平均的な大きさと見做せ、少なくとも、時代の下ったVI式や卑弥呼の時代に近いVII式(直径11cm以下)とは異なるものです。

 以上、いずれの観点で考えても、岡村編年による青龍三年鏡の製作年代と整合性があるようです。

 e 青龍三年鏡の特殊性

 [8]によると、1994年に大田南5号墳から出土した今回の青龍三年鏡と同型の鏡は、通常の方格規矩四神鏡に見られる次の5点の性質を持たないそうです。

 (1) 各辺の四神像は、鏡の内側から見てTL字の左に位置し、四神像の体の向きは反時計回りである。
 (2) 鈕穴は、鏡の上方(十二支の子の位置)から下方(十二支の午の位置)へ開口する。
 (3) 鈕穴は半円形。
 (4) L字は逆L字形。
 (5) 方格、TLV字とも屈曲部は直角で歪みは少ない。

 福永伸哉氏は、このような特異性を持つ規矩鏡の製作地と製作年代について、次のように考察しています。
 青龍三年鏡に図柄の近い椿井大塚山古墳出土の方格規矩四神鏡の外周突線は、中国鏡の中では極めて例外的な特徴であり、外周突線を持つ中国出土の規矩鏡は、福永氏の知る限りでは中原より東北方面の渤海湾を取り巻く地域から出土しているそうです。いずれもL字文様が原則(4)とは逆の正L字となっています。
 また、河北省大営村8号墳出土の方格規矩四神鏡に関する次の ア,イ の性質から、これらの特異な規矩鏡の一群は、中国の中原より東北の地域で、3世紀の前半から中頃までに作られたものと推定しています。

 ア 図像の特徴からみてこの種の規矩鏡の中では後出の要素を持つ。
 イ 大営村8号墳には西晋泰始七(271)年の紀年銘磚が使用されている。

 福永氏は大田南5号墳出土の青龍三年鏡も、これら一群の鏡の一つとして位置づけておられるようですが、これら一群の鏡には、青龍三年鏡とは異なる次のような特徴があるように見えます。

 a 青龍三年鏡にはない外周突線がある。
 b 表6の中で中国出土であることが明らかな3例のうち2例までが、[4][5]で方格規矩四神鏡の編年のために使用された周縁文様群のいずれとも異なる三重鋸の周縁文様を持つ。
 c 福永氏の挙げた規矩鏡のうち、日本列島出土以外の鏡の鈕穴は、不明なものを除き、すべて半円形である(青龍三年鏡は長方形)。

 このように、安満宮山古墳や大田南5号墳出土の青龍三年鏡の特異性は、[8]で取り上げているような外周突線を持つ一群の鏡の特異性とはやや性質が違うように私には思われるのです。

 f 終わりに

 本稿では、青龍三年鏡と同じ型式の中国鏡が作られたのは青龍三(235)年よりも200年近くも前のことだと考えられる理由を説明しました。つまり、青龍三年鏡が中国製であると仮定すると、1世紀前半の製作だということになりますが、「青龍三年」は、製作時には未来である3世紀の年号であり、刻まれるはずがなく、従って中国製とは考えにくい、ということです。
 そもそも青龍三年鏡中国製説は、魏の年号を持つことが有力な証拠とされているようですが、魏の年号の存在は、単に「魏の年号が使われていた地域で作られた」ことを意味するだけですから、日本等で中国の年号が使われていなかったことが証明されない限り、中国製であるとは結論できないはずです。
 むしろ、本稿のような考察から、この鏡が中国で製作されたとは考えにくいのですから、日本列島内で、中国の年号を知る工人が、過去の鏡を模倣して作った、という考え方の方が自然であると私は思います。

《参考文献》
[1]富岡謙蔵『古鏡の研究』
[2]梅原末治『鑑鏡の研究』
[3]樋口隆康『古鏡』
[4]岡村秀典「前漢鏡の編年と様式」『史林』67巻5号
[5]同「後漢鏡の編年」『国立歴史民族博物館研究報告』第55集
[6]同「福岡県平原遺跡出土鏡の検討」『季刊考古学』43号
[7]同「漢・六朝代の紀年鏡」『考古学ジャーナル』No388
[8]福永伸哉「青龍三年鏡と三角縁神獣鏡」『考古学ジャーナル』No388
[9]近藤喬一『三角縁神獣鏡』東京大学出版会
[10]車崎正彦「鏡と玉と金印」『考古学から見る邪馬台国』雄山閣
[11]岡村秀典「安満宮山古墳の青龍三年鏡出土」『毎日新聞・大阪』97年8月7日夕刊
[12]福永伸哉「安満宮山から銅鏡」『日経新聞・大阪』97年8月2日夕刊
[13]川村明「安満宮山古墳出土の「青龍三年」鏡について」『東アジアの古代文化』94号
[14]白崎昭一郎「方格規矩鏡と三角縁神獣鏡の関係」『東アジアの古代文化』94号

  (6) 糸島の3遺跡

 今回は、九州北部では須玖岡本遺跡と双璧をなす有名な糸島の三雲遺跡、井原遺跡、平原遺跡の3遺跡について解説します。
 末尾の参考文献[1]によって、この3遺跡から出土した鏡を、タイプ別に集計すると、下表のようになります。


--------+--------------+----------+--+----------+------------------+
    ‖ 前 漢 鏡 ‖後 漢 鏡‖ ‖     |         |
   鏡 +--+--+--+--+--+--+--+--+     |         |
   の ‖重|羽|星|異‖キ|方|内‖ ‖     |         |
   種 ‖圏|状|雲|体‖龍|格|行‖不‖     |         |
\  類 ‖彩|地|文|字‖文|規|花‖明‖ 出土遺跡 |   土器編年   |
 \   ‖画|文|鏡|銘‖鏡|矩|文‖ ‖     |         |
  \ ‖鏡|鏡| |帯‖ |鏡|鏡‖ ‖     |         |
遺跡名\‖ | | |鏡‖ | | ‖ ‖     |         |
--------*--+--+--+--+--+--+--+--+----------+------------------+
三雲1号‖1|1| |19‖ | | ‖13‖ 甕 棺 |  弥生III期   |
--------+--+--+--+--+--+--+--+--+----------+------------------+
三雲2号‖ | |1|21‖ | | ‖ ‖ 甕 棺 |  弥生III期   |
--------+--+--+--+--+--+--+--+--+----------+------------------+
井原鑓溝‖ | | | ‖ |19| ‖ ‖ 甕 棺 |  弥生IV期   |
--------+--+--+--+--+--+--+--+--+----------+------------------+
平 原 ‖ | | | ‖1|32|6‖ ‖割竹形木棺|弥生V期〜古墳時代|
--------+--+--+--+--+--+--+--+--+----------+------------------+

 ただし、三雲1号甕棺の不明な13枚の鏡はすべて破片で、これらはみな異体字銘帯鏡の破片であろうと考えられています。
 この表を見ると、本連載【2】の分類によれば、三雲の1号甕棺と2号甕棺は前漢鏡のみの出土、井原と平原の2遺跡は、平原遺跡のキ龍文鏡の一面を除き、後漢鏡のみの出土、と分かれています。
 さて、通説では、これらの遺跡が糸島半島にあることとから、音の類似により、魏志倭人伝に出て来る伊都国であるとみなしていますが、このような説は、鏡の編年から支持されるものなのかどうか、一つずつ検証してみることにしましょう。

 a 三雲遺跡

 まず三雲の2遺跡ですが、これらは須玖岡本遺跡と同じく、前漢鏡しか出土していません。しかも甕棺墓であること、土器編年で弥生III期である点も須玖岡本遺跡と同じです(従って、この遺跡を魏志倭人伝に出てくる大国のどれかに比定するのは、前回の須玖岡本遺跡と同じ理由で疑問があります)。
 また、異体字銘帯鏡はさらにI式からVI式までに分類されますが、その分類によると、三雲の遺跡は、1号甕棺にI式が一枚ある他はすべてIII式であり([2])、やはり須玖岡本遺跡と同じく、時期は紀元前1世紀中頃+αということになります。

 b 井原遺跡

 この遺跡は、三雲の2遺跡とは異なり、出土した鏡はすべて方格規矩鏡です。
 【5】で解説した岡村編年によれば、方格規矩鏡は、前漢代から王莽の新の時代を挟んで後漢代に及んでいますが、井原遺跡から出土した方格規矩鏡はすべて I〜III式であることが分かっています。そうなると、前回の最後の表により、鏡の製作年代は王莽の新以前、すなわち紀元前ということになります。
 すなわち、この遺跡から出土した方格規矩鏡は、中国で作られてから200年以上伝世したと考えない限り、この遺跡が3世紀に栄えたと見做すことは難しいでしょう。

 c 平原遺跡

 平原遺跡からは 龍文鏡が一枚出土していますが、これは岡村氏の分類によればキ龍文鏡I式であり、これは氏の絶対編年では紀元前1世紀の後半に当たります。ちなみに【5】中の最後の表によれば、キ龍文鏡の年代の下限は西暦紀元ころまでであることがわかります(ただし、キ龍文鏡のI式、IIA式、IIB式という岡村氏の編年の妥当性については疑問が残ります)。
 また、内行花文鏡6枚のうち4枚は、八咫鏡と呼ばれる同心円模様を持った、中国に出土例のない鏡で、残りの2枚は「大宜子孫」という銘文を持つものと、「長宜子孫」という銘文を持つもの各一枚です。
 これらのうち、4枚の八咫鏡は国産、中国に出土例のある「長宜子孫」鏡は中国鏡とされており、残る「大宜子孫」鏡については中国製か日本製かで議論があります。というのは、この「大宜子孫」という銘は中国に例が無いので、その点からは中国鏡とはしにくいのですが、その字体が他の舶載鏡にみられないめずらしい字体であり、前漢の西漢作山東新出土鏡の「孫」字とよく似ていることから、かえって国内で製作されたとは考えにくい、という説もあるのです([5])。
 ただ、これが国産であるか舶載であるかはともかくとして、岡村氏の分類により分類すれば、「長宜子孫」鏡は四葉座内行花文鏡II式、「大宜子孫」鏡は同I式となります。
 また、32枚の方格規矩鏡については、その内の1枚(39号鏡)が方格規矩鏡III式、5枚が同IV式、13枚が同VA式、5枚が同VB式となっています([1])。これは【5】中の最後の表によれば、1世紀中頃〜後半までに及んでいます。
 従って、平原遺跡は糸島の3遺跡の中では最も時代が下る遺跡ということになりますが、卑弥呼の時代まで下るかどうかは微妙です。

 d 倣製鏡と舶載鏡の区別は正しいか

 最後に平原遺跡出土鏡に関する[2]の議論の中で、方格規矩鏡に関するある問題が提起されているので、それを紹介すると共に、そこから発生する疑問についてコメントしたいと思います。
 平原遺跡の方格規矩鏡は全部で32面出土していますが、39号鏡の一枚を除いてすべて銘があります。そしてそれらのうち、1〜4、6〜9、17〜27号鏡の計19面が「尚方作竟…」で始まる銘を持ち、30〜34、36〜38号鏡の計8面が「陶氏作竟…」で始まる銘を持っています(他の4面は銘の最初の部分が欠落)。
 ところが、このうち「尚方作竟…」銘を持つ鏡については、中国でも大量に出土例があるのに対し、「陶氏作竟…」銘を持つ鏡は、方格規矩鏡以外の鏡を含めても、中国に全く出土例が無いそうです([2])。そもそも民間の姓を持つ例自体が希なのだそうです。
 さて、一方で内行花文鏡について氏はどう考えているかというと、問題の「大宜子孫」鏡については、銘文も字形も中国にないものであることを根拠に倣製鏡であるとし、[5]で中国鏡としているのを批判しています。すなわち岡村氏は平原遺跡の内行花文鏡に関しては「中国に出土例がない場合は国産」という方法論に立っているように見えます。
 ところがそうであれば、先程の方格規矩鏡についても、同じく中国に例の無い「陶氏作竟…」銘を持つ鏡を国産としてもよさそうなものなのに、これらについては中国鏡であるとしているのです。他の文様の共通性などからの判断もあるとは思いますが、方法論の不透明さが現れているように思えます。
 氏は、高橋徹という人の「平原遺跡出土の方格規矩鏡はすべて倣製」とする説を否定的に紹介し、「根拠は当たらない」と退けていますが、[2]ではそう考える理由までは触れられていません。
 私自身の感想を述べれば、[5]にカラー写真が掲載されている平原遺跡出土の方格規矩鏡の文様(鋳上がりの質ではなくデザインそのもの)は、中国出土の同鏡式の鏡と比べ、かなり稚拙であるという印象を受けました。前回の青龍三年鏡の場合は、文様も稚拙ですが、それだけでなく、もし中国製だと仮定すると、「青龍三年」という「未来の」年号を持っていることになってしまう、という客観的な事実により、国産である可能性が高くなりました。これに対し、平原遺跡出土の鏡には、年号を持つものはありませんが、文様の稚拙さに何か共通するものを感じます。
 やはり今後は、中国鏡と同じ鏡式の鏡だからといって直ちに中国製と断定するのではなく、国産である可能性も十分考慮にいれて慎重に判断していかなければならないでしょう。

《参考文献》
[1]「弥生・古墳時代遺跡出土鏡データ集成」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第56集)
[2] 岡村秀典「福岡県平原遺跡出土鏡の検討」(季刊『考古学』第43号)
[3] 同「前漢鏡の編年と様式」(『史林』67−5)
[4] 同「後漢鏡の編年」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第55集)
[5] 原田大六『平原弥生古墳 大日[雨/(口口口)/女]貴の墓』