本稿は魏志倭人伝冒頭の行路記事における「至」字の用法に関する一考察である。
魏志倭人伝の中から、その中心国である邪馬壹国までの行路記事部分を抜き出すと、次のようになる。(太字部分は固有名詞。また「至」字およびそれに先行する動詞がある場合は、その部分を赤字にしておいた。)
| a | 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。 |
| b | 始度一海千餘里、至對海國。 |
| c | 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。 |
| d | 又渡一海千餘里、至末盧國。 |
| e | 東南陸行五百里、到伊都國。 |
| f | 東南至奴國百里。 |
| g | 東行至不彌國百里。 |
| h | 南至投馬國水行二十日。 |
| i | 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。 |
このようにして「至」字に注目すると、「至」字を含む文(e以外)は、次のような5通りのタイプに分類される。
| (1) | 至+(地名)+(主文節) ‥‥‥‥‥‥‥‥ | a |
| (2) | (動詞)+(距離)+至+(地名) ‥‥‥‥‥ | b、d |
| (3) | (方角)+(動詞)+(距離)+至+(地名) ‥ | c |
| (4) | (方角)+至+(地名)+(距離) ‥‥‥‥‥ | f、h、i |
| (5) | (方角)+(動詞)+至+(地名)+(距離) ‥ | g |
(1)〜(5)を見ると、すべて「至+(地名)」という組み合わせになっている。そして(2)〜(5)については、この前後に距離の記述がある。
そこで、これらの表現による意味の違いを実証的に調べるために、『三国志』全体の中から「至+(地名)」の前後に距離の書かれている文を探してみたところ、意外なことに、魏志倭人伝以外には、次のたった一例しか存在していなかったのである。
| j | 儉遣玄菟太守王頎追之、過沃沮千有餘里、至肅愼氏南界、刻石紀功、刊丸都之山、銘不耐之城。(三国志巻二十八 魏書二十八) |
(1)〜(5)の用例がたった一例だけでは、それらの意味の違いを知ることは不可能である。
そうなると、『三国志』以外の文献を調べるしか方法がないわけであるが、『三国志』には『漢書』という先行史書が存在するので、その西域伝を調べてみたところ、(1)〜(5)の用例が多数存在していることが分かったので、報告することにしたい。
『三国志』の魏志倭人伝を含む「烏丸・鮮卑・東夷伝」に該当するのは、『漢書』巻九十六上・下の西域伝上・下である。そこで、この両巻から、「至+(地名)」の全用例を抜き出して分析してみることにした。
意味上の違いを明確にするため、まず「至」の前に動詞が先行するもの(前節の魏志倭人伝の分類で言えば(2)、(3)、(5)に該当)を順に調べていくことにする。
| 1 | 自玉門・陽關出西域有兩道。
從鄯善、傍南山北、波河西行至莎車爲南道。 南道西踰葱嶺則出大月氏・安息。 自車師前王廷、隨北山、波河西行至疏勒爲北道。 北道西踰葱嶺則出大宛・康居・奄蔡焉。(漢書西域傳上 中華書局本3872頁) |
ここでは「行+至」の構文が2例出現している(なお太字部分は固有名詞。以下同様)。
玉門・陽關から西域に出るのに二本のルートがあり、鄯善から莎車に至る南道を経由して大月氏・安息に出る南回りルートと、車師前王廷から疏勒に至る北道を経由して大宛・康居・奄蔡に出る北回りルートが書かれている。これを図示すると、次の図1のようになる(注1)。
図1 漢書西域伝の南道と北道
奄蔡
\ 北山
康居 ─* 疏勒 ────── 車師前王廷
/ \ / 北 道 \ 玉門
大宛 \ / \ /
>─ 葱嶺 ><
/ \ / \
大月氏 / \ 南 道 / 陽關
>* 莎車 ───────── 鄯善
安息 南山
さて、ここで「至」の訳し方に注目してみたい。「至」は「いたる」と動詞的に読んで、「西に莎車に行き至って南道と為す」、「西に疏勒に行き至って北道と為す」と訳すのが一般的であるが、この場合「行く」の直後にまた行くという意味を含む「至る」という動詞が続くため、「行き至る」というくどい表現になる。
そこで一試案として、「至」を「〜まで」と前置詞的に読めるかどうか確かめてみよう。「西に莎車まで行って南道と為す」、「西に疏勒まで行って北道と為す」と訳すことができ、「至」を前置詞的に「〜まで」と訳すことが可能であることがわかる。したがって、以下の用例でも、動詞に先行する「至」を前置詞的に「〜まで」と読んでよいかどうか一つ一つ確認していくことにする。
| 2 | 於是漢列亭障至玉門矣。(同 3876頁) |
この文は漢が楼蘭と戦をしている場面である。「亭障」というのは砦にする偵察用の番所、「列」は連ねる意味で、「至」に先行する動詞となっている。まず「至」を「いたる」と読んでみると、「これにより、漢は亭障を連ね、玉門に至る」となり、「至」を「〜まで」と前置詞に読めば、「これにより、漢は玉門まで亭障を連ねた」となる。
この両者を比較すると、前者の読みでは、「列(=連ねる)」の主語は漢なのに、「玉門に至る」のところで主語が「亭障」に変わってしまうことになる。これに対して後者のように「至」を「〜まで」と訳せば、このようなことは生じないため合理的であるといえる。
| 3 | 丞相將軍率百官送至横門外、祖而遣之。(同 3878頁) |
まず「至」を「いたる」と読むと「丞相將軍は百官を率い、送って横門の外に至り、祖がこれを遣わした」となり、「至」を「〜まで」と読めば、「丞相將軍は百官を率いて横門の外まで送り、祖がこれを遣わした」となる。
いずれの読みも可能であり、意味にほとんど違いはない。
| 4 | 故煩使者送至縣度、恐失實見欺。(同 3886頁) |
これは3の動詞「率」の代わりに「煩」、「百官」の代わりに「使者」、地名「横門」の代わりに「縣度」となっているだけだから、3と同様である。
| 5 | 行可百餘日、乃至條支。國臨西海、…。自條支乗水西行、可百餘日、近日所入云。(同 3888頁) |
これは烏弋山離国の一連の説明の中に挿入された條支国の説明文である。「至」を「いたる」と読むと「百日あまり行き、すなわち條支に至る。国西海に臨み、…(その)條支から百余日で日の入る所に近づく」となり、「至」を「〜まで」と読めば「百日あまりですなわち條支まで行く。国西海に臨み、(以下同じ)」となる。この場合は殆ど意味は同じであり、どちらの読み方も可能である。
| 6 | 自玉門・陽關出南道、歴鄯善、而南行至烏弋山離、南道極矣。(同 3889頁) |
この「烏弋山離」は国名で「行至」の例なので、最初の1と同じである。従って「至」を「いたる」と読むことも「〜まで」と読むこともできる。後者の場合、「玉門・陽關より南道に出て、鄯善を経て、南に烏弋山離まで行き、南道はここで終わる」となる。
| 7 | 武帝始遣使至安息、王令將將二萬騎迎於東界。(同 3890頁) |
太字の「安息」は国名。「至」を「いたる」と読むと、「使者を遣わして安息に至らしめ」となり、「至」を「〜まで」と読めば「使者を安息まで遣わし」となって、どちらも可能である。ただ、後者の方が「至らしめ」などと使役で読まなくてよいので素直な読み方ではないだろうか。
| 8 | 其後、都護甘延壽・副校尉陳湯發戊己校尉西域諸国兵至康居、誅滅郅支單于。(同 3892頁) |
「都護」は軍隊を用いて辺地を治める官名、「甘延壽」と「陳湯」は漢の人名、「發(=発)」は差し向ける意、「康居」は西域の国名、「郅支單于」は匈奴の人名である。「至」を「〜まで」と読むと、「その後、都護の甘延壽と副校尉の陳湯は戊己校尉西域諸国の兵を康居までさしむけ、郅支單于を誅し滅ぼした」となる。「至」を「いたる」と読むことも可能であるが、その場合、「至」を「康居に至らしめ」と使役に読む必要が生じるので、7と同じことが言える。
| 9 | 遣校尉常惠使持節獲烏孫兵、昆彌自將翎侯以下五萬騎從西方入至右谷蠡王庭、…。(漢書西域傳下 中華書局本3905頁) |
これも両方の読み方が可能で、「至」を「〜まで」と読んで、「…昆彌自將 侯以下の五万騎が西方から右谷蠡王庭まで入り、…」と読むこともできるし、「至」を「いたる」と読んで「…西方から入り、右谷蠡王庭に至る」と読むこともできる。
| 10 | 上美烏孫新立大功、又重絶故業、遣使者至烏孫、先迎取聘。(同 同頁) |
この「烏孫」は国名で、「遣〜至〜」の用例であるから、7と同様である。
| 11 | 使長羅侯光祿大夫惠爲副、凡持節者四人、送少主至敦煌。(同 同頁) |
この場合、「至」を「〜まで」と読むと、「少主を敦煌まで送る」となるが、「至」を「いたる」と読むと、「少主を送り、敦煌に至る」となって、「送」と「至」の主語が違う不自然な訳になる。
| 12 | 惠上書「願留少主敦煌、惠馳至烏孫責讓不立元貴靡爲昆彌、還迎少主。」(同 3906頁) |
この「惠」は人名である。「至」を「〜まで」と読むと、「惠は烏孫まで馳せ参じて」となり、「至」を「いたる」と読めば「惠は馳せ参じて烏孫に至り」となるため、どちらの読みも可能である。
| 13 | 漢遣破羌將軍辛武賢將兵萬五千人至敦煌、遣使者案行表、…。(同 3907頁) |
「破羌將軍」は称号、辛武賢は人名。「遣〜至〜」の用例であるから、7と同様である。
| 14 | 天子閔而迎之、公主與烏孫男女三人倶來至京師。(同 3908頁) |
京師は天子のいる都のこと。「至」を「〜まで」と読むと、「公主は烏孫の男女三人とともに、天子のいる都までやって来た」となるが、「至」を「いたる」と読めば「公主は烏孫の男女三人とともに来て天子のいる都に至る」となって、少々ぎこちない訳になる。
| 15 | 即將頼丹入至京師。(同 3916頁) |
この中の「頼丹」は人名である。これは「入至」の用例なので、9と同様である。
| 16 | 時烏孫公主遣女來至京師、學鼓琴…。龜茲前遣人至烏孫求公主女、未還。(同 同頁) |
ここには「至」が二か所に出てくるが、前者は「来至」の例なので14と同様であり、後者は「遣〜至〜」の用例なので7と同様である。
以上が『漢書』西域伝における「至+(地名)」の例のうち、「至」に動詞が先行する用例のすべてである。従って次のことが明らかになった。
『漢書』西域伝では、「至+(地名)」の例のうち、「至」に動詞が先行する場合はすべて、「至」字を「いたる」と読まずに「〜まで」という前置詞的な用法で読むことができる(というより、読んだ方がよい例が多い)。
次に同じ『漢書』西域伝上・下の中で、「至+(地名)」に動詞が先行しない用例(第1節の魏志倭人伝の分類で言えば(1)、(4)に該当)を順に調べていくことにする。
| 17 | 於是、自敦煌西至鹽澤、往往起亭、而輪臺・渠犂皆有田卒數百人、置使者校尉領護、以給使外國者。(漢書西域傳上 中華書局本3873頁) |
これは、「自A至B」という「AからBまで」の典型的な用例である。「敦煌から西は塩沢まで、往々(=ときおり)亭(=物見やぐら)を起こし、輪臺や渠犂(ともに地名)には、みな田卒(=耕作に従事しながら辺地の守備にあたる兵卒)を数百人おいて、使者校尉領護を置いて外国に使いする者にあてがった」と訳されるので、この「至」は移動とは無関係な、純粋に前置詞「まで」の意味であることがわかる。
| 18 | 出陽關、自近者始曰[女若]羌。[女若]羌國王號去胡來王。 |
| 去陽關千八百里、去長安六千三百里。…。 | |
| 西與且末接。…。 | |
| (1) | 西北至鄯善、乃當道云。(同 3875頁) |
これは陽關を出て一番近い西域の一国「[女若]羌」の地理的説明部分である。順に陽關からの距離と長安からの距離が示されたのち、隣接する国々「且末」と「鄯善」への距離や方角が記され、最後の頭に(1)を付けた文では「至」字が使われている。
この記事を皮切りに、西域各国の地理的説明が続くので、それらを数例まとめて引用しておく(18と同様に「至」字のある文には頭に(1)(2)(3)…を付けておいた)。
| 19 | 鄯善國、本名樓蘭、王治扞泥城。 |
| 去陽關千六百里、去長安六千一百里。…。 | |
| 西北去都護治所千七百八十五里。 | |
| (1) | 至山國千三百六十五里。 |
| (2) | 西北至車師千八百九十里。…。 |
| (中略) | |
| 鄯善當漢道衝、西通且末七百二十里。(同 3875〜3879頁) |
| 20 | 且末國、王治且末城。 |
| 去長安六千八百二十里。…。 | |
| (1) | 西北至都護治所二千二百五十八里。 |
| 北接尉犂。 | |
| (2) | 南至小宛可三日行。…。 |
| 西通精絶二千里。 (同 同頁) |
| 21 | 小宛國、王治扞零城。 |
| 去長安七千二百一十里。…。 | |
| (1) | 西北至都護治所二千五百五十八里。 |
| 東與[女若]羌接、辟南不當道。(同 同頁) |
| 22 | 精絶國、王治精絶城。 |
| 去長安八千八百二十里。…。 | |
| (1) | 北至都護治所二千七百二十三里。 |
| (2) | 南至戎盧國四日行、…。 |
| 西通扞彌四百六十里。(同 3880頁) |
| 23 | 戎盧國、王治卑品城。 |
| 去長安八千三百里。…。 | |
| (1) | 東北至都護治所二千八百五十八里。 |
| 東與小宛・南與[女若]羌・西與渠勒接、辟南不當道。(同 同頁) |
| 24 | 扞彌國、王治扞彌城。 |
| 去長安九千二百八十里。…。 | |
| (1) | 東北至都護治所三千五百五十三里。 |
| 南與渠勒・東北與龜茲・西北與姑墨接。 | |
| 西通于闐三百九十里、今名寧彌。(同 同頁) |
| 25 | 渠勒國、王治鞬都城。 |
| 去長安九千九百五十里。…。 | |
| (1) | 東北至都護治所三千八百五十二里。 |
| 東與戎盧・西與[女若]羌・北與扞彌接。(同 3881頁) |
| 26 | 于闐國、王治西城。 |
| 去長安九千六百七十里。…。 | |
| (1) | 東北至都護治所三千九百四十七里。 |
| 南與[女若]羌・北與姑墨接。…。 | |
| 西通皮山三百八十里。(同 同頁) |
| 27 | 皮山國、王治皮山城。 |
| 去長安萬五十里。…。 | |
| (1) | 東北至都護治所四千二百九十二里。 |
| (2) | 西南至烏[禾乇]國千三百四十里。 |
| 南與天篤接。 | |
| (3) | 北至姑墨千四百五十里。 |
| 西南當罽賓・烏弋山離道。 | |
| 西北通莎車三百八十里。(同 同頁) |
まだ延々と続くのだが、とりあえずここまでを調べてみよう。まず、第1節に挙げた倭人伝の分類の(4)「(方角)+至+(地名)+(距離)」の文型のものが多数あることがわかる。実に、「至」を含む文のうち、18(1)と、19(1)の二例を除くすべてがこの形である。
この結果、これらの文の「至」字は実際に目的地に「行ってしまう」という意味では使われていないことがわかる。
例えば20〜27の中には「(方角)+至+都護治所+(里数)」という文がそれぞれに出てくるが、この「都護治所」というのは、漢が西域を治めるために置いた軍事拠点のことである。これは、西域の各国から都護治所までの方角と距離を書いてその国の位置を説明したものなので、この「至」は実際に都護治所まで行ってしまうという意味ではない。
また、20(2)の「南至小宛可三日行」も、小宛国まで実際に行ってしまうという意味ではない。なぜなら、そうだとすると、その次の「西通精絶二千里」の起点は小宛国だということになってしまうが、小宛国を起点にした文はすべて次の21の中にまとめられているのだから、そのようなことはありえない。
22精絶国の(2)の「南至戎盧國四日行」等についても同様のことが言える。
結局、これらの文の「至」は、実際に目的地まで行ってしまうという意味ではなく、単に「〜の方角に〜がある」という、実際の移動を伴わない、方角を示すだけの目的で使われていることが明らかになった。
このことをさらにわかりやすく図解したものが次の図2である。19、20、22、24、26、27それぞれの最後には、「(方角)+通+(国名)+(里数)」という文型があるが、この「通」で連結されている国(鄯善→且末→精絶→扞彌→于闐→皮山→莎車)を黒線で、それらの国の地理的説明に出てくる国を、「至」で結ばれている場合は赤線で、「接」で結ばれている場合は青線で示している。
図2 国と国の関係の図解
莎車 姑墨 龜茲 尉犂 車師 山国
\ / │ \ / │ \ │
\ / │ \ / │ \ │
皮山 ─── 于闐 ─── 扞彌 ── 精絶 ── 且末 ────── 鄯善
/ │ │ │ │ │
/ │ │ │ │ │
烏[禾乇] 天篤 [女若]羌 渠勒 戎盧 小宛
| (凡例) | ── | 方角 + 通 + 国名 + 里数 | |
| ── | 方角 + 至 + 国名 + 里数 | ||
| ── | 方角 + 與 + 国名 + 接 |
この図2を図1と比較すると、図1で「南道」と書かれている鄯善から莎車までの国々を次々に「通」で結んで書いていることがわかる。そして「至」または「接」で示された国々はその南道からそれた旁国として表現されている(注2)。
これで27皮山国までを見てきたわけであるが、さらに残る西域43か国の地理的説明部分に出てくる「至+(地名)」の全用例をまとめて調べてみよう。ただし、全文を引用すると長くなるので、まず国名だけ抜き出して28〜70までの番号を付けておく。
| 28:烏[禾乇]國 | 39:大宛國 | 50:烏壘 | 61:蒲類後國 |
| 29:西夜國 | 40:桃槐國 | 51:渠犂 | 62:西且彌國 |
| 30:蒲犂國 | 41:休循國 | 52:尉犂國 | 63:東且彌國 |
| 31:依耐國 | 42:捐毒國 | 53:危須國 | 64:劫國 |
| 32:無雷國 | 43:莎車國 | 54:焉耆國 | 65:狐胡國 |
| 33:難兜國 | 44:疏勒國 | 55:烏貪訾離國 | 66:山國 |
| 34:罽賓國 | 45:尉頭國 | 56:卑陸國 | 67:車師前國 |
| 35:烏弋山離國 | 46:烏孫國 | 57:卑陸後國 | 68:車師後國 |
| 36:安息國 | 47:姑墨國 | 58:郁立師國 | 69:車師都尉國 |
| 37:大月氏國 | 48:温宿國 | 59:單桓國 | 70:車師後城長國 |
| 38:康居國 | 49:龜茲國 | 60:蒲類國 |
そしてその番号の国の中に出てくる「至」を含む文を、その国の番号の下に(1)(2)(3)…を付けて並べることにする。
大半は「(方角)+至+(地名)+(距離)」の形であるが、それ以外の、方角のない「至+(地名)+(距離)」の形のものに◆印を、方角も距離もない「至+(地名)」の形のもの(一例だけ存在)に◇印を、方角も距離もあるが「(方角)+(距離)+至+(地名)」の順番に並んでいるもの(一例だけ存在)には○印を付けておいた。
| 28(1) | 東北至都護治所四千八百九十二里。 | |
| 30(1) | 東北至都護治所五千三百九十六里。 | |
| 30(2) | 東至莎車五百四十里。 | |
| 30(3) | 北至疏勒五百五十里。 | |
| 30(4) | 西至無雷五百四十里。 | |
| 31(1) | 東北至都護治所二千七百三十里。 | |
| 31(2) | ◆ | 至莎車五百四十里。 |
| 31(3) | ◆ | 至無雷五百四十里。 |
| 31(4) | 北至疏勒六百五十里。 | |
| 32(1) | 東北至都護治所二千四百六十五里。 | |
| 32(2) | 南至蒲犂五百四十里。 | |
| 33(1) | 東北至都護治所二千八百五十里。 | |
| 33(2) | 西至無雷三百四十里。 | |
| 33(3) | 西南至罽賓三百三十里。 | |
| 34(1) | 東北至都護治所六千八百四十里。 | |
| 34(2) | 東至烏[禾乇]國二千二百五十里。 | |
| 34(3) | 東北至難兜國九日行。 | |
| 35(1) | 東北至都護治所六十日行。 | |
| 37(1) | 東至都護治所四千七百四十里。 | |
| 37(2) | 西至安息四十九日行。 | |
| 38(1) | ◆ | 至越匿地馬行七日。 |
| 38(2) | ◆ | 至王夏所蕃内九千一百四里。 |
| 38(3) | 東至都護治所五千五百五十里。 | |
| 39(1) | 北至康居卑闐城千五百一十里。 | |
| 39(2) | 西南至大月氏六百九十里。 | |
| 41(1) | 東至都護治所三千一百二十一里。 | |
| 41(2) | ◆ | 至捐毒衍敦谷二百六十里。 |
| 41(3) | 西北至大宛國九百二十里。 | |
| 41(4) | 西至大月氏千六百一十里。 | |
| 42(1) | 東至都護治所二千八百六十一里。 | |
| 42(2) | ◇ | 至疏勒、南與葱領屬。《師古曰、屬聯也。音之欲反。》 |
| 42(3) | 西北至大宛千三十里。 | |
| 43(1) | 東北至都護治所四千七百四十六里。 | |
| 43(2) | 西至疏勒五百六十里。 | |
| 43(3) | 西南至蒲犂七百四十里。 | |
| 44(1) | 東至都護治所二千二百一十里。 | |
| 44(2) | 南至莎車五百六十里。 | |
| 45(1) | 東至都護治所千四百一十一里。 | |
| 45(2) | 西至捐毒千三百一十四里、徑道馬行二日。 | |
| 46(1) | 東至都護治所千七百二十一里。 | |
| 46(2) | 西至康居蕃内地五千里。 | |
| 47(1) | 東至都護治所二千二十一里。 | |
| 47(2) | 南至于闐馬行十五日。 | |
| 48(1) | 東至都護治所二千三百八十里。 | |
| 48(2) | 西至尉頭三百里。 | |
| 48(3) | 北至烏孫赤谷六百一十里。 | |
| 49(1) | 東至都護治所烏壘城三百五十里。 | |
| 50(1) | ○ | 其南三百三十里至渠犂。 |
| 51(1) | ◆ | 至龜茲五百八十里。 |
| 52(1) | 西至都護治所三百里。 | |
| 53(1) | 西至都護治所五百里。 | |
| 53(2) | ◆ | 至焉耆百里。 |
| 54(1) | 西南至都護治所四百里。 | |
| 54(2) | 南至尉犂百里。 | |
| 56(1) | 西南至都護治所千二百八十七里。 | |
| 60(1) | 西南至都護治所千三百八十七里。 | |
| 62(1) | 西南至都護治所千四百八十七里。 | |
| 63(1) | 西南至都護治所千五百八十七里。 | |
| 64(1) | 西南至都護治所千四百八十七里。 | |
| 65(1) | 西至都護治所千一百四十七里。 | |
| 65(2) | ◆ | 至焉耆七百七十里。 |
| 66(1) | 西至尉犂二百四十里。 | |
| 66(2) | 西北至焉耆百六十里。 | |
| 66(3) | 西至危須二百六十里。 | |
| 67(1) | 西南至都護治所千八百七里。 | |
| 67(2) | ◆ | 至焉耆八百三十五里。 |
| 68(1) | 西南至都護治所千二百三十七里。 |
以上18(1)〜68(1)が、西域の各国の地理的説明部分に出てくる「至+(地名)」の用例のすべてである。これらの用例を見ていくと、18(1)、42(2),50(1)以外はすべて「(方角)+至+(地名)+(距離)」あるいは「至+(地名)+(距離)」の文型となっている。これは既に19〜27の用例のところで説明した文型と同じなので、これらの「至」も実際に「行ってしまう」意味ではなく、「〜まで(で)」と前置詞的に読む例であることがわかる。要するに、この文型は次のような訳になるのである。
「(方角)+至+(地名)+(距離)」は、「(方角)の方向に、(地名)まで(で)(距離)である」。
「至+(地名)+(距離)」は、「(地名)まで(で)(距離)である」。
これを19の例で具体的にいうと、
19(1)の「至山國千三百六十五里」は「山国まで(で)千三百六十五里である」。
19(2)の「西北至車師千八百九十里」は「西北に、車師まで(で)千八百九十里である」。
となる。
それでは次に、この文型以外の形、つまり「(方角)+至+(地名)+(距離)」の形でもなく、「至+(地名)+(距離)」の形でもない18(1)、42(2)、50(1)について見てみよう。
まず18(1)は、「西北の方向に、鄯善までで、道に突き当たる」と訳せ、「至」を「〜まで(で)」と読むことが分かる。
次に42(2)は、師古注により「屬」とは「聯(=連なる)」のことだ、というのであるから、「至」を「〜まで(で)」と前置詞的に読み、「疏勒まで(で)、南に葱領と連なる」と訳すことができる。
50(1)については、語順がこのようになっても、「至」を「〜まで(で)」と読んで、「その南は、渠犂まで三百三十里である」と訳すことができる。
以上、説明の都合で、西域諸国の地理的説明部分に出てくる動詞の先行しない「至+(地名)」の用例を先に解説してきた。しかし、『漢書』西域伝には、動詞の先行しない「至+(地名)」の用例がまだ10例残っていて、それらのうち、「〜まで」という前置詞的用法の「至」は2例存在しているので引用しておこう。
| 71 | 自宛以西至安息國、雖頗異言、然大同、自相暁知也。(漢書西域傳上 中華書局本3896頁) |
| 72 | 自烏孫以西至安息、近匈奴。(同 同頁) |
71は「宛より西へ安息国までは、すこぶる言語が異なるけれども大体同じで、互いに悟り知れる」、72は「烏孫から西、安息まで匈奴に近い」という意味である。
前節の最後で述べたように、『漢書』西域伝には、動詞が先行しない「至+(地名)」の文型がまだ8例残っているが、これらを調べてみたところ、「至」が前置詞的に使われていない例であることがわかったので、それらを順に解説していこう。
| 73 | 既至漢、封日遂王爲歸徳侯、吉爲安遠侯(漢書西域傳上 中華書局本3874頁) |
これは日遂王と鄭吉という西域の二人の人物が「漢に至り、日遂王を歸徳侯に、鄭吉を安遠侯に封じた」という意味で、この「至」は「〜まで」という意味の前置詞などではなく、明らかに「いたる」という意味である。ただしここで注目していただきたいのは、文章はここで終わらず、「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文章が下に続いていることである。
| 74 | 既至樓蘭、詐其王欲賜之、王喜、與介子飲、醉、將其王屏語、壯士二人從後刺殺之、貴人左右皆散走。(漢書西域傳上 中華書局本3878頁) |
これは漢が楼蘭王の刺客として介子という人物を楼蘭に送り込んだときの話である。介子は計略の一環として、外国に名を授けたいとかねがね言い触らし、「ようやく楼蘭に着くや、その王(=楼蘭王)に名を授けたいと言って騙したところ、王は喜んで介子と飲み、酔い潰れたのを見計らって背後から刺し殺してしまった」というのである。
この文も「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という形になっている。
| 75 | 使者業已受節、可至皮山而還。(同 3887頁) |
これは罽賓国と漢の国交が跡絶えていたとき、成帝の時(前33〜前7)に罽賓国の方から使者を遣わして謝罪してきたので、漢の方で報いてやろうと考え、杜欽という人が大将軍の王鳳という人に進言した長い言葉の最後の方に出てくる文章である。ここで「業已」は「すでに」の意味、「皮山」は西域の国名であり、「使者はすでに節を受け、皮山に至って、帰ったと思われます」と訳せる。これも、「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文体と見なせる。
| 76 | 都護吏至其國、坐之烏孫諸使下、王及貴人先飲食已、乃飲啗都護吏、故爲無所省以夸旁國。(同 同3892頁) |
これは都護の郭舜が、康居が漢を敬わないで奢った態度をとっていることを不服として天子に進言している文章の中の一文である。「其國」は西域の康居国、「烏孫」は西域の国、「飲啗」は「飲み食いする(させる)」の意味で、「都護の役人がその国(康居)に着くと、これを烏孫の諸使の下に座らせ、王や貴族が先に飲み食いし、それから都護の役人に飲み食いさせて臆するところがなく、旁国のことを誇っている」と訳せる。これも「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文体と見なせる。
| 77 | 公主至其國、自治宮室居、歳時一再與昆莫會、置酒飲食、以幣帛賜王左右貴人。(漢書西域傳下 中華書局本3903頁) |
「其國」は烏孫国、「昆莫」は師古注によれば、匈奴の單于に相当する権力者の称号で、「公主はその国(烏孫)に着くと、自ら宮室居を治め、おりを見てたびたび昆莫と会い、酒を置いて飲み食いし、王の左右の貴族に金品を賜った」と訳せる。これも「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文体と見なせる。
| 78 | 因収和意・昌係瑣、從尉犂檻車至長安、斬之。(同 3906頁) |
「和意」と「昌」は人名で、「瑣」は「くさり(鎖)」、「尉犂」は国名、「檻車」は「罪人等を運ぶ板囲いの車」であるから、これは「よって和意と昌に鎖をかけて収め、その檻車が尉犂より長安に着いたところで彼らを斬った」と訳せる。これも「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文体と見なせる。
| 79 | 東奏事、至酒泉、有詔還田渠犂及車師、益積穀以安西國、侵匈奴。(同 3923頁) |
この「奏事」は「天子に上奏する」、「酒泉」は地名、「渠犂」と「車師」は西域の国名である。「東で天子に上奏してから酒泉に着くと、『田を渠犂と車師に返し、穀物を備蓄して西国を安らかに治め、匈奴を責めよ』という詔があった」と訳され、これも「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文体と見なせる。
| 80 | 即將數千騎至校尉府、脅諸亭令燔積薪、分告諸壁曰、「匈奴十萬騎來入、吏士皆持兵、後者斬。」(同 3926頁) |
これは「すなわちまさに数千の騎兵が校尉府に至るや、各物見やぐら(=亭)を脅して薪を積んで燃やし(=燔)、それぞれのとりで(=壁)に『匈奴が十万の大軍で攻め入ってくるからみな武器(=兵)を持って、あとから来るもの(=後者)は斬れ』と告げた」と訳せる。これも「〜に着いて、(それに関連して)〜した」という文体と見なせる。
以上見てきたように、前置詞的な「〜まで」という意味でない73〜80の用例は、すべて「〜に至り、(それに関連して)〜した」という接続詞的な用法で使用されていることが判明した。
これで1〜80の用例、すなわち『漢書』西域伝における「至+(地名)」のすべての用例の分析が終わった。
この分析の結果をまとめておこう。
『漢書』西域伝においては、「至+(地名)」という文体は、次の2種類の用法のみで使用されている。
A 「〜まで(で)」という前置詞的用法
B 「〜に至り、(それに関連して)〜した」という接続詞的用法
また、Aのうち、動詞が先行しない場合は、次の5通りのいずれかの文型であり、「至」には「目的地まで実際に行ってしまう」という意味はない。
α (方角) + 至 + (地名) + (距離)
(19(2)〜27(3)、28(1)〜68(1)の無印のもの 全69例)
β 至 + (地名) + (距離)
(19(1)、28(1)〜68(1)の◆印のもの 全10例)
γ 自 + (地名) + (方角) + 至 + (地名) + (主文節)
(17、71、72 全3例)
δ 至 + (地名) + (主文節)
(42(2) 全1例)
ε (方角) + (距離) + 至 + (地名)
(50(1) 全1例)
なお一言コメントしておくと、この結論はあくまで『漢書』西域伝における「至」字の用法に関する結論であって、「至」字の用法に関する一般論ではない。『漢書』の他の部分や他の文献で「至」字を文字どおり「いたる」と読む例は多い。
さて、話を肝心の魏志倭人伝に戻そう。
『三国志』巻三十の「烏丸・鮮卑・東夷傳」の序文は、「秦・漢以来、匈奴久爲邊害」というような記述から始まって、最後は次のkの文で終わっている。
| k | 烏丸・鮮卑即古所謂東胡也。其習俗・前事、撰漢記者已録而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變云。 |
これは、『漢書』のそれも西域伝を意識して、それを補うのだという意気込みが感じられる文である。また、鮮卑伝と夫餘伝の間には、「東夷伝」の序文として次のlがあるのだが、そこでは、漢代に西域を調査したことについて言及しており、しかも『漢書』西域伝に出てくる諸国の国名が列挙されている(太字部分)。
| l | 及漢氏遣張騫使西域、窮河源、經歴諸國、遂置都護以總領之、然後西域之事具存、故史官得詳載焉。魏興、西域雖不能盡至、其大國龜茲・于ゥ・康居・烏孫・疎勒・月氏・鄯善・車師之屬、無歳不奉朝貢、略如漢氏故事。 |
しかも、この「東夷伝」序文の最後は次のmの文で締め括っているので、『三国志』の「東夷伝」の著者が『漢書』西域伝を十分読んでそれを意識して書いたことは明らかである。
| m | 故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。 |
このことは、冒頭に掲げた魏志倭人伝の行路記事と『漢書』西域伝の類似性を比較することで、よりはっきりわかるはずである。
その第一は、「至」の用法である。『漢書』西域伝で最も用例の多かった「至」の用例は、前節最後のαの形であるが、これは第1節に掲げた魏志倭人伝の行路記事のタイプのうち、最も用例の多い(4)と全く同じである。
第二に、第1節冒頭の魏志倭人伝のaにおける「歴〜」や、gの「行至〜」については、既に引用した『漢書』西域伝の6の文中に、「歴鄯善」と「行至烏弋山離」という、同じ文体が存在している。
以上の考察により、魏志倭人伝の行路記事が、『漢書』西域伝と同じ文字用法によって書かれている可能性がかなり高いことがわかったので、倭人伝のa〜iを『漢書』西域伝の用法に従って解読してみることにする。
前節の終わりでまとめた「至」の用例AとBのうち、倭人伝の行路記事a〜iにはBの用例に当たるものは存在していない。なぜなら、まずaは、「從郡至倭」よりあとに「韓国を歴る」とあるのだから、「倭に至ってから海岸にしたがって水行する」わけではない。またb〜iでは、引用した文の直後にはその国の官名や戸数の説明が来るので「〜国に至ったので〜した」という文型ではないからである。したがって、a〜iはいずれもAに従って読めばよいことがわかる。すなわち、ここに出てくる「至」はすべて「〜まで」と読んでよい、ということになる。
それではa〜iを実際に訳してみよう。
| a | 郡より倭までは、海岸にそって水行し、韓国を南と思えば東に歴て、その北岸の狗邪韓国に七千余里で到着する。 |
| b | 始めて一海を千余里、対海国まで渡る。 |
| c | また南へ一海、瀚海と名づけられた海を千余里、一大国まで渡る。 |
| d | また一海を千余里、末盧国まで渡る。 |
| e | 東南に五百里陸行し、伊都国に到着する。 |
| f | 東南、奴国まで百里である。 |
| g | 東に不弥国まで百里行く。 |
| h | 南、投馬国まで水行で二十日である。 |
| i | 南、邪馬壹国という女王の都する所まで水行で十日、陸行で一月である。 |
この訳文で明らかなように、aとeは「到」、bは「度(=渡)」、cとdは「渡」、gは「行」という動詞があるので、実際にその国まで行っていることは確かである。
ところがそれ以外のfとhとiには動詞がない。しかも第1節の原文で見ると、すべて(4)の型であり、これは前節終りの分類α、すなわち『漢書』西域伝では「〜の方向に〜がある」という、単に方角と距離を示すだけの69例の構文と同じなのである。
以上で、『漢書』西域伝の「至」の用例に従って倭人伝を解読するならば、次の図3のようになる。
図3 倭人伝の解読
郡(=帯方郡)
↓
狗邪韓国
↓
対海国
↓
一大国
↓
末盧国
↓
伊都国 → 奴国
│
│ 投馬国
↓ /
不弥國 〈
\
邪馬壹国
本稿による「奴国と投馬国を脇道に落とす読み方」は、既に古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』において提起した読み方と同じである。
ただし、氏はその読み方を『三国志』から帰納しようとしたため、決定的な用例が見いだせず、「動詞が先行しない『至』が実際に行く意味ではない」という例(氏は「四至・傍線行程」と命名)をわずか6例しかあげられなかった。しかも坂田隆氏『邪馬壹国の論理と数値』によると、この6例の中には、当の証明すべき倭人伝のfとhの2例(古田氏によるとiは動詞が先行しない例ではなく動詞が省略された例だということで数に入れない)が含まれている上、残る4例も、わずか一つの文例に出現する「東至…、西至…、南至…、北至…」の4例だけであることが判明し、論証としては成功しなかった。これが本稿では『漢書』西域伝によってかなり確かな裏づけを得たことになるのである(注3)。
| (注1) | 冒頭の倭人伝のaの最初の「從郡至倭」の「從」に関連して、「從」と「自」という二つの文字について、前者は経由の意味、後者は起点の意味という使い分けがされているという説がある。ところが本節の1の『漢書』西域伝引用文の二行目冒頭の「從」と四行目冒頭の「自」は文の形式も全く同じであり、意味にも特に違いがなく、したがって「從」と「自」の間に意味の違いがあるとは考えられない。
このように同じ意味なのに違う文字を使っている例は、この引用文の中でも他に「南山」と「北山」の直前に、前者は「傍(=依る)」、後者は「隨(=付き従う)」というほぼ同じ意味の文字が使われており、単に文章が単調になるのを防ぐために、異なる文字を使用したただけではないかと考えられるのである。(本文に戻る) |
| (注2) | 主線行程と傍線行程のことについて、「至」に続く距離の記述が「里数」ではなく「日数」で書かれているものが傍線行程であることが『漢書』西域伝から導き出される、という説を主張される方がおられるが、図2による限りそのような事実はない。
実際、二重線の中ほど右にある傍線行程の「且末→小宛」と「精絶→戎盧」については、20(2)と22(2)を読めばわかるように、それぞれ「可三日行」「四日行」と確かに距離が日数で書かれている。ところが、図2で同じく傍線行程とみなせる最初の方の、「鄯善→山国」「鄯善→車師」と最後の方の「皮山→姑墨」「皮山→烏[禾乇]」については、19(1)、(2)と27(2)、(3)から明らかなように、それぞれ「千三百六十五里」「千八百九十里」「千三百四十里」「千四百五十里」と、里数表記になっている。(本文に戻る) |
| (注3) | この『漢書』西域伝の調査により、倭人伝の最後の「水行十日、陸行一月」を郡から邪馬壹国までの全行程のことであるとする説が成立できないこともわかる。実際、倭人伝のiの「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」は、挿入句「女王之所都」を除くと「(方角)+至+(地名)」の例になっているが、『漢書』西域伝ではこのような型式は,第4節最後にまとめた文例でいうとαかβの例しかなく、そのどちらの例でも下に距離の記述が来る。したがって、倭人伝のiの「水行十日陸行一月」を「南至邪馬壹國、女王之所都」から切り離し、「不弥国から邪馬壹国までの距離はゼロ」と解釈することはできないのである。実際『漢書』西域伝では、距離がゼロの場合は「至」ではなく「接」が使用されている。(本文に戻る) |