九州王朝説批判

第4章 推古紀と俀国伝


14.多利思北孤と利歌彌多弗利

 前章までの、唐代に関する中国史書の分析や『日本書紀』との比較によって、「九州王朝」なるものが登場する余地はないことが判明した。しかし、依然として納得できない方もおられるであろう。なぜなら、古田氏も指摘しているように、『日本書紀』で推古女帝の治世に当たる時代に、『隋書』では俀国王の名は多利思北孤で、妻がいると書かれており、これは明らかに男である。従ってこれらを同一視することは、解釈の問題などではなく、明らかな矛盾を生じる。これ以外にも推古紀と俀国伝の間には多くの矛盾が指摘されており、こと隋代に関する限り、唐代の場合とは違って古田氏の指摘には正当なものも存在しているのである。ただ、逆に氏の指摘がすべて正しいとも限らないので、まず本章ではこれらの問題を詳細に調査しよう。

 まず、今例にあげた「王の名と性別の矛盾」について調べよう。【資料8】俀国伝のεに次の記事がある。

 開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利

 この中に、「多利思北孤」、「利歌彌多弗利」という語が出てくるが、推古紀には「タリシホコ」とか「リカミタフ(ホ)リ」などという人名は出て来ない。

 まず「利歌彌多弗利」について考察しよう。
 古田氏は、推古天皇の太子である聖徳太子にはこのような名前はなく、したがって俀国は天皇家ではないという根拠の一つにしている。
 一方、『東アジア民族史1 正史東夷伝』で『隋書』俀国伝の和訳を担当した山尾幸久氏は、通説どおり俀国を天皇家であるとしているが、この「利歌弥多弗利」を「和歌弥多弗利」の誤りとし、「和歌」は「若」、ミタは田に美称ミをつけたもの、フリは村(pul)のことで、のちの舒明天皇である田村(みたふり)皇子のことだとしている。
 山尾氏の解釈はいかにも苦しいが、一見正反対に見える古田氏と山尾氏の説には共通点がある。それは「利歌彌多弗利」を人名(固有名詞)とみなしていることである。
 中華書局から活字版で発行されている標点本24史は、句読点が打ってあるだけでなく、固有名詞には傍線を引いてあるので大変読みやすく便利な本である。ところがこの標点本でbの部分を見ると、「阿毎」や「多利思北孤」には傍線を引いて固有名詞であることを明記しているのに、問題の「利歌彌多弗利」には傍線を引いていない。つまり固有名詞とは見なしていないのである。もっとも単なる傍線の引き忘れかもしれないので、もう少し詳しく調べてみよう。
 bの「太子利歌彌多弗利」は「名A爲B」という文型であるが、問題はこれが「利歌彌多弗利という名の太子がいる」という意味なのかどうかである。『隋書』には「名A爲B」又はAが先に来る「A…名爲B」という形の文が全部で42例ある。これを【資料14】としてまとめておいた。なお、標点本で傍線を引いて固有名詞と見なしている部分を赤字に、波線を引いて書物の名前と見なしている部分を青字にしておいた。
 これらを眺めると、重要な事実に気づく。Bの部分には、10や37のように青字(書名)になっている例はあるが、赤字(固有名詞)になっている例は一つもない。つまり標点本では一般に「名A爲B」の構文ではBを固有名詞とは見なしていないのである。ではBが固有名詞ではないとしたら、「名A爲B」や「A…名爲B」はどんな意味になるのであろうか。
 【資料14】の1の場合で考えてみよう。この文は「これより冬至のことを祀天と言い、啓蟄のことを祈穀と言う」という意味になるので、BはAの言い換え、すなわち「AのことをBという」という意味になる。
 の場合も、A=五色安車で、B=五時車であるから、これも「AのことをBという」という単なる言い換えである。
 また、21は百官志という役所や役職の新設や改名を記録した巻に書かれているものだが、「都水臺」を「監」に、「使者」を「監」に改名したという意味で、これも「AのことをBという」という言い換えである。
 次に、書名の例を調べてみる。10ではA=所著之書,B=綴術、37ではA=集字書、B=韻纂であるが、どちらもAは特定の書物を表わしていて、「AのことをBという」という言い換えになっている。
 以上の例による限り、「名〜爲〜」という語法は「Aを名付けてBとする」という意味ではなく、単に言い換え、すなわち「AのことをBという」という意味であると考えなければならないことがわかる。
 それでは逆に、「AをBと名付ける」という場合は漢文ではどう表現されているのだろうか。『隋書』の中に次の例がある。

 文帝皇太子勇、晉王英、秦王俊、蜀王秀。(隋書 志第十七 五行上)

 「文帝が皇太子を勇と名付けた」という場合に「名A曰B」という文型を用いている(魏志倭人伝でも「共立一女子爲王、名曰卑彌呼」と書かれている)。
 以上の調査により、俀国伝の「太子利歌彌多弗利」は、「太子を利歌彌多弗利と名付けた」という意味ではなく「(俀国では)太子のことを利歌彌多弗利と呼んでいる」という意味であることがわかる。つまり、「リカミタフ(ホ)リ」というのは個人名ではなく、太子という意味の倭語(普通名詞)だったのである。標点本で傍線が付いていないのも当然であろう。
 では、太子のことを倭語で実際に「リカミタフ(ホ)リ」と呼んでいたという痕跡はあるのだろうか。
 「ワカンドホリ」という古語がある。三省堂の『新明解古語辞典』によると、「皇室の御血統。皇族」とあり、『源氏物語』の「なまわかんどほりなどといふべき筋にやありけむ」という文例が載っている。この語については関口昌春氏の『ふたりの聖徳太子』126頁以降に詳しく述べられていて、それによると、『源氏物語』『宇津保物語』などの用例から、これは皇族・王族に関連した意味だろうという考え方が一般的であるという。これは太子(=天子の跡継ぎ)の意味が変化したものである可能性が十分ある。
 また、音の変化については、「カミタチ(神館)→カンダチ」に見える「カミ→カン」や、「ダホ→ドホ」という母音の同化により、「カミタホリ→カンドホリ」という音韻変化は説明可能である。
 問題は語頭の「リ」と「ワ」の食い違いであるが、既に明らかにしたように、この語は普通名詞であり、和語では語頭にラ行が立つ普通名詞はないのだから、一字目の「利」は誤字であると考えざるを得ない。では何の字の間違いなのだろうか。
 『隋書』の中に次のような記事がある。

 州刺史・新義縣公韓擒爲廬州總管。(帝紀第一 高祖上 開皇元年三月)
 高祖作相、遷州刺史。(列傳第十七 韓擒虎)

 これらは、高祖文帝の即位時の官職の発令記事であり、どちらにも韓擒(虎)という刺史の名前が出て来る。dによれば、文帝が即位した開皇元年に、州の刺史であった韓擒が廬州の總管に命ぜられ、eによれば、文帝が即位した時、韓擒虎が州刺史を退いている。つまり、韓擒(虎)は、文帝の即位時まで、帝紀によれば州刺史、列伝によれば州刺史だったことがわかる。つまり「利」か「和」のどちらか一方が誤記なのである。
 この例から、「利」と「和」は『隋書』において実際に書き誤られるほどよく似た字であったことがわかる。ゆえに「歌彌多弗利」も実は「歌彌多弗利」の誤りであるという可能性が十分ある。
 実は、この想定を裏づける記事が『翰苑』の倭国条にある。それは【資料11】εの注部分後半の次の記事である。

 王長子号()哥弥多弗利、華言太子。(翰苑 蕃夷部 倭國)

 原文では「哥弥多弗利」と書かれた「哥」の字の右上に「」と朱書きされている。fは、“王の長子を「和哥弥多弗利」と呼び、これは中国語で「太子」のことである”という意味であるから、先の“「歌彌多弗利」は「歌彌多弗利」の誤りで、太子という意味の普通名詞である”という結論を裏づけるものとなっている。
 以上で、『隋書』俀国伝の「利歌彌多弗利」は個人名ではなく、したがって推古紀と何ら矛盾するものではないことがわかった。

 ところが同様にして、aの「多利思北孤」も固有名詞ではなく普通名詞であると考えて、推古紀との矛盾を回避しようとする説がある。このような説は正しいだろうか。
 『隋書』では「字(あざな)」の下は例外なく個人名になっていて、しかも標点本では「多利思北孤」のところには、「利歌彌多弗利」とは違って固有名詞であることを示す傍線が引かれている。ただ問題は、この俀國伝の著者の認識が正しいかどうかである。
 この「多利思北孤」という名前は他の中国正史にも登場する。それは『新唐書』(1060年成立)や『宋史』(1345年成立)などである。

 次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、 始與中國通。(新唐書 東夷 日本)
 按、隋開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、遣使致書。(宋史 外国七 日本國 【資料3】の『王年代紀』引用部分に続く本文中)

 ここでは「多利思北孤」が「多利思比孤」とか「多利思比孤」となっているが、この頭の「目」とか「自」は衍字と考えられている。しかしこの「衍字」は『新唐書』や『宋史』が初めてではなく、801年成立の『通典』に既に出て来るのである。

 隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也、遣使詣闕。(通典 第一百八十五 邊防第一 倭)

 誤字や衍字は、似た字に間違えるとか、近くにある字が紛れ込んで生じるなど比較的理由のわかるものが多いが、この「自」は、そのようなケースには当てはまらないように思える。
 また、iにはもうひとつ奇妙な謎がある。それは「其國號阿輩雞彌」という部分である。なぜならこれは「その国号は阿輩雞彌である」という意味に取れるが、『隋書』によれば、aにあるように、「阿輩雞彌」は国号などではなく、俀王の号だからである。
 ところが、この「自」と「阿輩雞彌」の謎を同時に解決する方法がある。それは、「自多利思比孤」の「自」を衍字ではなく、「〜以来」という意味の前置詞とみなすのである。つまり、これを「多利思北孤以来、〜」と解するわけである。この「〜」には次の「其國號阿輩雞彌」が入るので、「タリシヒコ以来、その国はアハキミと号す」と読むことができる。では「その国」は「何」を「アハキミと号す」のかというと、当然、直前にある「倭王」を「アハキミと号す」のである。つまり、iの骨格は「隋文帝開皇二十年、倭王…遣使詣闕。」であり、「…」の部分である「姓阿毎、名自多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也」は、「倭王」を説明する挿入句なのである。したがって、i全体の意味は次のようになる。

 隋の文帝の開皇20年に、倭王が、─ 姓は「阿毎」であり、名は、「多利思比孤」以来その国では「阿輩雞彌」と号しているのだが(そしてこれは中国語で「天児」という意味なのだが)─ 使を遣わして中国に朝貢してきた。

 つまり、「阿輩雞彌」というのは、倭王が歴代名乗って来た「天の子」という意味を持つ倭王の一般称号であり、それを名乗った最初の王が「多利思比孤」だった、というわけである。これは「多利思比孤」を個人名とみなすべき、『隋書』にはない新たな情報である。なお、gやhの著者は『通典』のiを誤読し、「自多利思比孤」を王名だと考えたのであろう。
 さらに、jの解読の正当性を裏づける記事が、やはり『翰苑』の倭国条にある。それは、先のfの直前にある次の記事である。

 今案、其王姓阿毎、國号為阿輩雞、華言天兒也。(翰苑 蕃夷部 倭國)

 「阿輩雞」の後ろに「彌」が抜けているが、「阿輩雞彌」は中国語で「天児」のことだと書かれている。これはjと同内容であり、この解読が正しいことの裏づけとなる。
 以上により、「利歌彌多弗利」とは違って、「多利思北孤」は『隋書』でも『通典』でも個人名と見なされていることがわかり、推古紀との間に王名の矛盾があることは確実になった。しかも「多利思北(比)孤」は「タリシ矛」又は「タリシ彦」で、どう見ても男性の名前であり、さらにbによれば王には妻がおり、後宮に女があるというのであるから、推古女帝とは性別も矛盾しているのである。


15.冠位十二階の「不一致」

 古田氏は、推古紀と官(冠)位の問題に触れ、俀国伝中に書かれた官位十二階は、推古紀のものと食い違っていると主張し、これは異なる王朝の官位だからであるという(『失われた九州王朝』第三章/四/疑いの山)。このような説は正当であろうか。  実際に俀国伝と推古紀から官位について書かれた部分を引用してみよう。

 内官有十二等。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。(隋書 東夷 俀國)
 戊辰朔壬申、始行冠位。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮、小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并十二階。(推古紀 十一年十二月条)

 古田氏が食い違っているというのは、その序列の順番のことである。すなわち俀国伝では徳・仁・義・禮・智・信の順であるのに対し、推古紀では徳・仁・禮・信・義・智の順であるから食い違っている、というのである。これがはたして「同一国のことだとした場合の矛盾」と言えるであろうか。試みに『隋書』東夷伝から各国の官位を列挙してみよう。

 官有太大兄、次大兄、次小兄、次對盧、次意侯奢、次烏拙、次太大使者、次大使者、次小使者、次褥奢、次翳屬、次仙人、凡十二等。(隋書 東夷 高麗)
 官有十六品。長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。(同 同 百濟)
 其官有十七等。其一曰伊罰干:貴如相國、次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏干、次大奈摩干、次奈摩、次大舎、次小舍、次吉土、次大烏、次小烏、次造位。(同 同 新羅)

 一目瞭然、国によって、官位の名称は全く異なっている。これに比べれば、推古紀と俀国伝での順番の違いなどは問題にならないほどである。しかも、『隋書』俀国伝の仁・義・礼・智・信の順序は儒教の格付けと同じであり、この両者の食い違いは“儒教思想を持つ中国が、推古紀にあるとおりの官位を聞いて、順番が間違っていると誤解し、正史に記録するときに誤って訂正してしまった”という仮説で十分説明がついてしまう。逆にこれだけ官位の内容が一致していれば、両者異なる王朝であったとする説の方が苦しく、逆に推古朝と俀国が同一国であったことの一つの有力な証拠になるであろう。


16.開皇二十年の遣隋使

 古田氏は、俀国伝の開皇20(600)年の遣隋使が、俀国としては隋に対する最初の遣使であるにもかかわらず、『日本書紀』には一切書かれていないのは不審であるという(『失われた九州王朝』第三章/四/違和の国交)。
 確かに『日本書紀』の推古紀で対応する推古8(600)年及びその前後には何の遣使記事もない(【資料15】)。この点、前章で論じた遣唐使の場合とは異なり、中国史書に記された俀国の遣使の中には、日本側の史書に出てこないものが存在する。しかし、推古紀に開皇20年の遣使記事が書かれていないことは、それほど「不審」なことであろうか。
 既に第12節の第一次遣唐使の所で解説したように、中国史書の記す貞観5(631)年の遣唐使で高表仁が倭王と礼を争った事実を、舒明紀(舒明3年条)では、礼を争った事実はおろか、そもそも天皇が高表仁と会った事実さえカットしていた。つまり、『日本書紀』の編纂姿勢として次の性質が指摘できるのであった。

 『日本書紀』では、天皇家にとって外交上の不名誉な記事はカットされることがある。さらにその際、不名誉な出来事そのものだけでなく、不名誉な出来事を含む、もっと大きな出来事までまるごとカットされてしまうことがある。

 この開皇20年の遣使記事をよく読むと、俀国の使者が自国の風俗として「俀王は天を以て兄と為し、…」と述べたところ、中国の天子から「大いに義理なし」とその風俗をたしなめられ、改めさせられている(【資料8】のε)。これは俀国にとってはまさに、aのいう「外交上の不名誉な事件」である。したがって、開皇20年の遣使についても、「それまでの伝統ある風俗を、中国の天子に義理無しとたしなめられ、改めさせられたという不名誉な事実」だけでなく、遣使の事実そのものまでカットしてしまった可能性は十分ある。すなわち推古紀に開皇20年の遣使に対応する記事がないことは、必ずしも不審なことではないのである。

 ところで、開皇20年に俀国の使者が述べた風俗の内容というのは次のものであった(【資料8】ε)。

 俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聴政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。

 これの古田氏による訳を引用しよう(『法隆寺の中の九州王朝』/第三部/第三章/兄弟統治)。

 俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っている。天がまだ明けていない時には、(政堂に)出でて政務を聴き、結跏趺座(仏教者の正座の法)して坐している。
 日が出ると、すぐさま理務(統治の業務)をやめ、「わたしの弟にまかせよう」という。

 その上で、氏は次のように結論する(同書及び『失われた九州王朝』第三章/四/疑いの山)。

 俀国では、天(未明)−日(日中)と、一日を二分し、俀王は前者の未明を受け持つ宗教的権威を帯びた王者であり、日中の実質上の政務は弟に当る副王にゆだねている。
 このような特異な政治形態は『古事記』や『日本書紀』の中には一切出現しない。
 一方、魏志倭人伝には、「立一女子爲王、名曰卑弥呼。…有男弟、佐治國」とあり、この“姉が宗教的権威、弟が政治の実務”という分担は、俀国の政治形態と同じである。
 ゆえに多利思北孤の俀国は、天皇家ではなく、卑弥呼の王朝の末裔である。

 古田氏は、bには「兄弟王による統治」が描かれていると考えてcのように訳し、そこからAの結論を導いているが、そもそもbには「弟王」の存在など書かれているのだろうか。
 例えば『東アジア民族史』1の「隋書俀国伝」では、bを次のように訳している。

 俀王は、天を兄とし、太陽を弟としています。〔それで俀王は〕天がまだ明けぬうちに〔王宮に〕出て政事を聴きます。〔その間〕跏趺をかき不動の姿勢をとっています。
 太陽が昇ると、あとは弟〔たる太陽〕に委ねるといってその政事を終えます。

(『東アジア民族史』1 p322)

 すなわち、bは「日の出前に政治行為を終え、日が昇ったら、あとはお天道様にまかせよう」と言って政治行為は行わない、という「夜行性の」政治体系を採用していることを説明したものだ、というわけである。この解釈では「弟」というのは太陽のことを意味するだけであって、「弟王」を表しているのではない。確かに俀国伝の地の文には、弟王の存在など書かれていないのだから、私はこちらの解釈の方が正当だと思うが、少なくともこのような解釈が存在する以上、bを俀国に兄弟統治が行われている証拠とみなすことはできないのである。


17.大業三年の遣隋使

 次は俀国伝の大業3(607)年と推古紀の推古15(607)年の遣使の比較についてである。古田氏は言う(『失われた九州王朝』第三章/四/違和の国交)。

 俀国伝によれば、大業三年の遣使は、仏法習学のための、数十人の「沙門」をひきつれた大使節団であった。ところがこれに対し、推古15年の遣使では、使者は小野妹子と通事の鞍作福利の二人だけであり、俀国の大使節団とは、似ても似つかない。

 確かに俀国伝の大業3年条には「聞、海西菩薩天子、重興仏法。故遣朝拝、兼沙門数十人来学仏法」とあるし(【資料8】ν)、推古紀15年条には小野臣妹子と鞍作福利の2人の名前しか出てこない(【資料15】α)。これだけを比較すると、いかにも食い違っているように見えるが、俀国伝の「故遣朝拝、兼沙門数十人来学仏法」というのがいつの遣使のことを指しているかが実は問題なのである。例えば『東アジア民族史』1の「隋書俀国伝」では、この部分を次のように訳している。

 海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏教を興隆されていると聞いた。故に使して朝拝し、かたがた僧侶数十人が来て仏法を学びたい。(『東アジア民族史』1 p322)

 古田氏が「故遣朝」以下を「現在形」で読んだのに対し、この訳では「未来形」で読んでいる。漢文ではどちらも可能であるが、実はこの場合、未来形で読めば矛盾など生じないのである。なぜなら、翌推古16(大業4)年の遣使に次の記事が存在するからである(【資料15】のθ)。

 是の時に、唐の国に遣はす学生倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀、学問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人広濟等、并せて八人なり。

 すなわち、大業3(607)年の遣使時に告げた「故に使して朝拝し、かたがた僧侶数十人が来て仏法を学ぶ」というのは実は「予告」であり、翌年の遣使のときにこれを「実行」したのである。つまり、「大業三年の遣使が数十人の大使節団だった」のではなく、「大業三年の遣使時に、近々数十人の大使節団を送りこむという予告をし、翌年それを実行した」のである。なお、人数が「数十人」と「八人」ではかなり異なるが、「数十人」の方は単なる予告に過ぎないのであるから、予定と実行が乖離したというだけの話であり、これは矛盾ではない。

 また、古田氏は次の「矛盾」も指摘している(『失われた九州王朝』第三章/四/違和の国交)。

 俀国伝によれば、大業三年に「日出ずる処の天子…」という国書を送っているが、推古紀には国書を送った記事はない。これに対し、隋の煬帝の不興をかったため、国書の記事を書かなかったのだろう、という解釈があるが、それなら国書を呈したという事実そのものまで隠す必要はない。

 既に第16節において、『日本書紀』の編纂姿勢としてaの性質を指摘したが、このことをBについて当てはめれば、もし国書の内容が国交上具合が悪ければ、『日本書紀』の編纂時にその内容をカットするだけでなく、国書を呈したという事実そのものまでカットしてしまったとしても不思議ではない。従って、Bの最後の主張は必ずしも成り立たないのである。


18.大業四年の遣隋使

 次に大業4年の遣隋使であるが、これは古田氏の指摘どおり、俀国伝と推古紀の間には、裴世清を迎えた使者の名や日付等のすべてに対し、明確に齟齬が存在している。
 【資料8】υから俀国伝における出迎えの使者の名前を抜き出すと次のようになる。

俀国伝(大業3年条)
(1) 到着した海岸で数百人を従えて出迎え ……   アハイダイ
小徳・阿輩臺
(2) 後十日、二百余騎を従えて出迎え …………   カ  タ  ヒ
大礼・哥多[田比]

 一方【資料15】β〜εから推古紀における出迎えの使者の名前を抜き出すと次のようになる。

推古紀(推古16年条)
(3) 4月、筑紫で出迎え …………………………なにはのきしをなり
難波吉士雄成
(4) 6月15日、難波津で飾船三十艘で出迎え …なかとみのみやどころのむらじをまろ
中臣宮地連烏摩呂
おほしかふちのあたひあらて
大河内直糠手
ふねのふびとわうへい
船史王平
(5) 8月3日、京で飾騎七十五匹で出迎え ……ぬかたべのぶらじひらぶ
額田部連比羅夫
(6) 8月12日、朝庭で出迎え ……………………あへのとりのおみ
阿部鳥臣
もののべのよさみのむらじいだき
物部依網連抱
                        

 通常は、(1)の「阿輩臺」を推古19年5月5日条に出てくる「粟田細目臣」に当てたり、あるいはこれを「何輩臺」(『北史』による)の誤りとみなして(4)の「大河内直糠手」に当て、(2)の「哥多[田比]」を(5)の「額田部連比羅夫」に当てたりしている。
 しかしながら、これらは音の類似も不充分なだけでなく、日付にも齟齬が生じている。例えば、6月15日に出迎えた大河内直糠手を「阿輩臺」に、8月3日に出迎えた額田部連比羅夫を「哥多[田比]」に当てたのでは、間が1月半も空いてしまい、とても(2)のいう「後十日」にはならない。また、(1)が(5)に、(2)が(6)にそれぞれ対応すると仮定すれば、両者の間隔は共に十日になるが、今度は名前と出迎えた場所が一致しない。
 さらに、これは古田氏も指摘していることだが、俀国伝では「阿輩臺」は「小徳」、「哥多[田比]」は「大礼」という官位が付いている。ところが推古紀では、大河内直糠手や額田部連比羅夫は「小徳」や「大礼」どころか、そもそも肩書きが書いていない。他の小野妹子や乎那利には「大礼蘇因高」とか「大礼乎那利」と書いてあるのにである。
 また、「阿輩臺」を「粟田細目臣」に当てる説では、皇極元年12月13日条に「小徳粟田臣細目」と書かれており、これなら肩書きも一致する。しかし、肝心の推古15年条にも16年条にも「粟田細目臣」の名は出て来ず、しかも推古19年条でも「小徳」の肩書きは書かれておらず、推古16年から皇極元年まで34年も経っているのであるから、推古16年から既に小徳だったという保証はない。従って、この当てはめも苦しいといわなければならない。
 要するに、これらの対応は、きちんとした根拠があってのことではなく、単に推古紀の中から、類似の発音を含む名前を選んできただけのことでしかないのである。
 ただ、第5節で解説したように、『唐会要』倭国伝の777年の遣唐使の名「朝楫寧」「総達」に対応する『続日本紀』の遣唐使の名前がそれぞれ「小野朝臣石根」「大神朝臣末足」と食い違っている例もあるので、『隋書』の場合でも、名前が一致しないから直ちに矛盾だとは言えないが、逆に同一人物であることを証明しようとすれば、別に根拠が必要であることは言うまでもない。


19.推古22年の遣隋使

 【資料15】κによれば、推古天皇は、推古22(614)年に中国に使者を派遣している。ところが、この遣使は『隋書』には書かれていない。ただ、単に書かれていないだけなら矛盾とは言えないが、古田氏によれば、次のような理由で矛盾があるという。

 俀国伝によれば、(610年の)裴世清の帰国に際し、使者を同行させて遣使したという(【資料8】ψ)。ところが俀国伝では、この直後に「此後遂絶」つまり“その後の遣使はなかった”とわざわざ念を押している。従って、俀国と推古朝が同一国だとすれば、これは明らかな矛盾である。

 一見尤もらしいが、問題は「此後遂絶」という語句の解釈にある。「この後遂に絶えた」というのは、古田氏の言うように、裴世清帰国以降の遣使は無かったという意味なのであろうか。
 このことを実証的に調べるため、『隋書』の帝紀から他国との国交に関する記事の全体を【資料16】に掲げ、それをもとに【資料17】として、個々の国の夷蛮伝の記事と【資料16】の中の当該国の記事を左右に対比させておいた。さて、【資料17】の夷蛮伝(左側)の方を眺めると、(6)俀国伝の「此後遂絶」と類似の記事で締めくくられている国が多いことに気づく。(2)百済の「使命遂絶」、(5)流求の「自爾遂絶」、(9)真臘の「其後亦絶」、(10)婆利の「後遂絶」、(14)康国の「後遂絶焉」、(15)安国の「後遂絶焉」、(17)女国の「其後遂絶」、(34)突厥の「由是朝貢遂絶」がそれである。これらは微妙に表現の異なるものもあるが、注目すべきは(15)安国のケースである。夷蛮伝(左側)を見ると、大業5年の朝貢に続いて「後遂絶焉」と書いてあるのに、帝紀(右側)を見ると、大業11年に朝貢している。つまり、夷蛮伝で「後遂に絶えた」と書いてありながら、帝紀ではそれより後の年次に朝貢している例が存在するのである。
 この調査により、少なくとも「後遂絶焉」の場合は、「その後一切遣使は無かった」という意味ではなく、「その後のある時点から遣使は絶えた」という意味に過ぎないことがわかる。「此後遂絶」と「後遂絶焉」には若干表現の違いがあるが、だからといって“「此後遂絶」なら「その後の遣使は一切無かった」という意味になる”と主張すべき根拠があるわけではない。


20.倭と俀

 この章の最後に「倭」と「俀」の問題を取り上げる。第7節の冒頭にも述べたように、『隋書』には、帝紀では「倭」、志と列伝では「俀」と書かれている。『隋書』における「倭」と「俀」の全用例を【資料18】として一表にまとめておいた。
 古田氏は『失われた九州王朝』の中で、「倭」と「俀」は別の国であり、倭は大和王権を、俀は九州王朝を指すのだという。その根拠は古田氏によれば次のとおりである。

 「倭」の音は「ワ」、「俀」の音は「タイ」で、これらは発音も異なる別字である。
 俀国伝によれば、大業四年に俀国を訪れた隋の裴世清の帰国に際し、俀国は使者を随行させて貢献した。しかし、これと帝紀・大業四年の「倭」の朝貢記事は同一視できない。なぜなら、倭国の貢献は大業4年の3月であり、わずか3か月の間に裴世清が俀国に赴き、かつ帰国するのは時間的に無理であるし、推古紀によれば裴世清が筑紫に到着したのは推古16年(大業4年)4月であり、同年3月に帰れるはずがない。
 俀国伝の、大業四年の裴世清の帰国記事の次に「此の後、遂に絶つ」とあり、最後の貢献だった旨を明記している。ところが倭国の方は、帝紀によれば、その後大業六年にも貢献してきたというのであるから、倭国と俀国は同一国ではありえない。

 まず、個別の根拠を検証する前に、【資料18】の表を見ると、「倭」の字は帝紀にのみに現れ、志と列伝には現れず、逆に「俀」の字は志と列伝にのみに現れ、帝紀には現れていない。このような史料状況のもとでは、「倭」と「俀」が別国だというのは、いかにも不自然である。なぜなら、もし両者が別の対象を表わすのだとしたら、帝紀、志、列伝のいずれかの中に「倭」と「俀」の両方が出て来てもよいはずだからである。
 また、同表の俀国伝の中で、「安帝時、又遣使朝貢、謂之俀奴國」のように、既に存在しない過去の国名「倭奴國」までが「俀奴國」と書かれている。これは、古田氏の主張とは逆に、「俀とは倭のことである」とみなすべき必然性があることを示している。

 次に個別の根拠について検証しよう。まずCについては、前節に指摘したとおり、「最後の貢献だった旨」など明記されていないのであるから、そもそも前提が成立していない。

 次にAであるが、字や発音が異なるからといって、直ちに別の対象だということにはならない。なぜなら『隋書』には、同一対象(人名)に対して、帝紀と夷蛮伝で音の異なる形の似た別字を使っている例が存在するからである。文帝紀に次の記事がある。

 壬寅、高麗王高遣使朝貢。授大將軍・遼東郡公。(隋書 文帝紀 開皇元年十二月)
 辛亥、高麗遼東郡公高卒。(隋書 文帝紀 開皇十年七月)

 ここに高麗王「陽」の名が出てくる。ところが、『隋書』高麗伝には次の記事がある。

 l六世孫在周。遣使朝貢、武帝拜湯上開府遼東郡公遼東王。
 高祖受禅、復遣使詣闕、進授大將軍、改封高麗王。(中略)開皇初、頻有使入朝。及平陳之後、大懼、治兵積穀、爲守拒之策。
 十七年、上賜璽書曰「…」。得書惶恐、將奉表陳謝、會病卒。子元嗣立。

(隋書 列伝第46 東夷 高麗)

 このように、帝紀では「陽」だった高麗王の名が、高麗伝では「湯」になっている。なお、死亡年が、帝紀では十七年、高麗伝では十年七月と食い違っているが、帝紀では「陽」は開皇元年に大将軍・遼東郡公を賜って開皇十年七月に死亡し、高麗伝では「湯」の在位期間中に「開皇初、頻有使入朝」しているのであるから、両者の在位期間は重なっており、同一人物であることは間違いない。したがって、高麗伝の「十七年」は「十年七月」の誤りと考えられる。
 また、中国人の名でありながら、煬帝紀と流求国伝では「張鎭州」、陳稜伝では「張鎭周」と字が異なっている例さえ存在するのである(後出のg、h、iを参照)。
 以上により、「俀」と「倭」が音さえも異なる字だからといって、それらが別の対象を表わすとは限らないことがわかった。

 次にBであるが、古田氏は、裴世清の帰国が、倭を訪れたのと同じ大業4年の出来事だということを自明の前提にして推論している。推古紀によれば確かに裴世清の帰国は同年9月なのだが、このような別の文献に惑わされず、純粋に『隋書』のみを見ると、『隋書』自体には“裴世清の帰国が大業4年だ”とは一切書かれていないのである。実際、【資料8】俀国伝の当該部分(ν〜ψ)を見てみよう。
 その中で、裴世清の帰国を記しているのはψの部分である。古田氏は「明年」で始まるξ以下の部分をすべて、νの大業3年の明年、すなわち大業4年の出来事だと考えたわけである。すなわち俀国伝の記事の年次について、「次の新たな年次が書かれるまでは、同じ年内の出来事である。」と判断したのである。
 ところがこのような判断は実は正しくないのである。同じ『隋書』の流求国伝(【資料17】の(5)参照 )を見てみよう。そこには次のように書かれている。

 大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。
 三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。言不相通、掠一人而返。
 明年、帝復令寛慰撫之。流求不從。寛取其布甲而還。時俀國使來朝、見之曰「此夷邪久國人所用也」。
 帝遣武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州率兵、自義安浮海撃之、至高華嶼。又東行二日,至[句/黽][辟/黽]嶼。又一日便至流求。

(隋書 列傳第四十六 東夷 流求)

 これら一連の記事のうち、gの部分には冒頭に新たな年次が書かれていない。先程の古田氏の判断が正しいとすれば、gの記事もfの「明年」と同じ年、すなわち大業4年の出来事でなければならない。ところが、同じ『隋書』の煬帝紀や陳稜伝には次の記事がある。

(大業六年)二月乙巳、武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州、撃流求破之。(隋書 煬帝紀上)
 大業三年、拜武賁郎将。後三歳、與朝請大夫張鎭周、發東陽、兵萬餘人、自義安汎海撃流求国。(隋書 列傳第二十九 陳稜)

 これらはいずれもgと同一の事件を指している。そして、これらの記事による限り、gの年次は大業6年なのである。
 すなわち『隋書』の東夷伝では、年次が変わっても、その新たな年次を明記していない例が存在する。従って、俀国伝も、【資料8】のψの年次が大業4年だ、などとは一切主張していなかったのである。以上により、Bの前提は、その根拠が失われた。

 以上で「倭」と「俀」が別物であるとする根拠は全く存在せず、逆に「俀奴国」の表記により「倭」=「俀」であると考えるべき必然性があるのだから、「倭」=「俀」であることは明らかになったと考えられる。
 以上の結果を踏まえて、推古紀は使わず、純粋に『隋書』のみの分析によって、裴世清の帰国が何年だったのかを探ってみよう。【資料8】の俀国伝を見てみると、ε〜μの部分に、俀国の風俗記事が並んでいるが、ιの部分に注目してみよう。そこには俀国の楽器や遊戯等に関するビジュアルな記事があり、これらは裴世清らの実地見聞を情報源として書かれたものと思われる。そしてその中には次の一文がある。

 毎至正月一日、必射戯飲酒、其餘節畧與華同。

 つまり、俀国では正月の習慣だけ中国と違っていて、それ以外の節句はおおむね中国と同じだ、というのである。相手国と自国の一年間の風俗が同じか違うかということが判断できるためには、両国の一年間の風俗を見て知っていなければならない。つまり、俀国を見聞した裴世清らは、俀国に最低一年以上は滞在したことになるのである。
 すると、裴世清らが倭(=俀)国を発ったのは、大業5年以降ということになり、従って裴世清に同行した倭(=俀)国の使者が中国に着いたのも、これ以降となる。すなわち帝紀にある大業6年の正月の遣使がそれだということになる。

 以上により判明した事実は次のとおりである。倭(=俀)国から、俀国伝にある大業3年の朝貢に続いて帝紀にある大業4年3月にも朝貢があり、この時の朝貢が流求国伝のfにも書かれている。そして同年、同じ使者が裴世清の遣使の案内人として同行したので裴世清は初めての国である倭(=俀)国に迷わず至ることができた。そして、裴世清は足掛け二年倭(=俀)国に滞在し、大業5年の末に帰国の途に着き、その際俀国伝にあるように、倭(=俀)国の使者が随行して隋に朝貢した。これが帝紀にある大業6年正月の遣使である。

 つまり、『隋書』自体は決して“日本列島に倭と俀という二つの国が存在した”とは主張していなかった。ただ、推古紀との間に裴世清の帰国年次の食い違いが存在するのである。
 本節の結論は、既に千歳竜彦氏により指摘されたものであるが、本節の検証は、これを改めて追認する形になったわけである。

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