「倭の五王」とその前後


序章

 従来から、3世紀の『三国志』と5世紀の『宋書』に挟まれた4世紀、あるいは『宋書』倭国伝と7世紀の『隋書』に挟まれた6世紀は、中国史書の倭に関する記事が少なく、いわゆる空白の世紀として知られている。本稿は、5世紀の中国史書に現われる「倭の五王」関係の記事に関連して、『晋書』から『梁書』までの中国正史全ての夷蛮伝と帝紀の朝貢記事を全面的に比較検討し、倭に関する記事の空白が意味するものを探ろうと試みたものである。

第1章.『宋書』の史料批判

1.「讃」の称号問題

 中国正史の倭国条に登場する讃・珍・濟・興・武の5人は一般に「倭の五王」と呼ばれている。ところが、この呼称は、これら5人の名が登場する最古の現存史料である『宋書』に関する限り実はミス・ネーミングなのである。なぜなら、この5人のうち最初の「讃」に関して次のような史料事実があるからである。
 資料【宋書2】(15)に、『宋書』倭国伝と、帝紀の倭に関する記事の全文を抜粋しているが、讃以外の4人に関しては次の事実がある。

(1) 珍は、夷蛮伝のqに「倭國王」とあり、帝紀の438・4の項にも「倭國王珍」とある。
(2) 済は、夷蛮伝の443年の項に「倭國王濟」とあり、帝紀の451・7の項にも「倭王倭濟」とある。
(3) 興は、夷蛮伝の462年の項に「倭國王」とある。
(4) 武は、夷蛮伝のvに「倭王」とあり、帝紀の478・5の項にも「倭國王武」とある。

 すなわち、これら4人については確かに倭国の「王」であると明記されている。ところが、讃の名が出て来るのは倭国伝の421年、425年、及びpの段落だけであり、そのいずれにも、讃が倭国の「王」であるとは一切書かれていていないのである。

 もちろん、この事実は関和彦氏の「『宋書』倭国伝の再検討」(『東アジアの古代文化』32号所収)等で既に指摘されている。しかし氏の場合は志水正司氏の論文「倭の五王に関する基礎的考察」に従って、帝紀の430年1月の王名不明の倭王は讃であるとし、最後は讃は倭王になったものとした。志水氏の論文の当該部分は次のとおりである。

 それでは、不明の倭国王名はどのようにして求められるかというに、倭国王乃至倭王に 冊封せられた年代に着目し、これをもって倭国王交代のときと認めるのである。かくみる に、讃から珍への交代は四三八年(元嘉一五)、珍から済へは四四三年(同二〇)、済から 興へは四六二年(大明六)、興から武へは四七八年(昇明二)と認定されよう。そして、 これに準拠するとき、四三〇年(元嘉七)遣使の倭国王は讃であり、四六〇年(大明四) のは済であることが自ら判明する。

 つまり、帝紀の438年の「以倭國王珍爲安東將軍」を珍が倭国王に除された記事とみなし、このとき讃から珍へ倭王が交代した、というのである。
 しかし、珍が王に封ぜられたのは、必ずしも「安東将軍に封ぜられた」ときであるとは限らない。
 資料【宋書2】の(5)[般/女]皇國や(6)[般/女]達國の夷蛮伝449年のように、「王」に除されているのに、将軍位には除されていない例がある((13)の高句驪國の夷蛮伝420年の詔からわかるように、「王」も「都督」と同様に中国から除される立派な「位」の一つである)。
 従って、珍の場合も、安東将軍に除される前に、王のみに除されていた時期があったかもしれず、珍が倭王になったのが438年だとは言い切れないのである。
 それならば、「帝紀では、朝貢した王が前回と同じ場合は名前を省略している」という仮説はどうであろうか。この仮説がもし成り立つならば、430年の倭王は王名が省略されており、しかも珍の名は438年まで出てこないことから、430年の遣使者は讃ということになる。しかしこの仮説は成り立たないことがすぐにわかる。なぜなら、この仮説に従えば、438・4の項には「倭國王珍」と王名が書かれ、次の行(同年)と443年の項には王名が無く、次の451・7の項には「倭王倭濟」と王名が書かれているので、443年の倭王は珍になるはずである。しかし、倭国伝・443年の朝貢記事には「倭國王濟」と記されている。

2.『宋書』帝紀の表記法の全用例調査

 それでは『宋書』帝紀で遣使記事に王名が書かれていたり省略されたりしているのはどのような基準によるのであろうか。
 資料【宋書1】は、帝紀におけるすべての夷蛮の朝貢・授号記事を抜き出したもので、王名が書かれている記事が12個あり、その全てに◆印を付けてある。(ちなみに元嘉13年6月と15年に武都王とあるが、「武都」は王名ではない。王名の場合は、他の例からわかるように、「王」字の後ろに名前が来る。元嘉6年12月、9年7月、14年12月の西河王も同様である。)
 この調査結果により、『宋書』帝紀では、王名が省略されている場合について、次の規則があることが判明したのである。

A 『宋書』帝紀の朝貢・授号記事においては、授号を伴う場合、そしてその場合に限って王名が記されている。

 この事実から、430年の帝紀の倭の遣使記事に王名が書かれていないのは、単に授号がなかったからに過ぎないことが判明する。しかもそれだけではない。このAにより、【宋書2】(15)に掲げる倭国の朝貢・授号記事について、次の重要な事実が得られるのである。

B 帝紀443年の遣使には王名がないので授号はなかった。従って、夷蛮伝の同じ443年の記事の後半にある「以爲安東將軍倭國王」の年次はこの443年ではなく、それ以降の別の年次の出来事である。

 すなわち、一般に『宋書』夷蛮伝では、朝貢記事に続けて授号記事がかかれていても、両者が同一年次の出来事であるとは限らない。

 このBの事実の持つ意義は重大である。なぜなら、珍が長々しい肩書きを表して除正されることを求めた倭国伝のpと、それを認められて除されているqについても、同一年次の出来事とは限らないことになるからである。
 実際、夷蛮伝のq(帝紀との比較により438年の出来事であることは明らか)のように、425年の遣使以来年次が変わっているにもかかわらず、それを明記しないということがあることからも、pとqの年次を同一とすべき必然性はないわけである。
 また、除正を求めた年次とそれが認められて除正された年が離れている明確な実例が、時代は下って唐代の例にはなるが、『旧唐書』と『唐会要』の中にあるので、引用してみよう。
 『旧唐書』夷蛮伝に、次の記事がある。

 開元七年、遣使來朝、進天文經一夾、秘要方并蕃薬寺 物、詔遣冊其王爲葛羅達支特勒。(『旧唐書』西戎伝 [四/厂<(炎リ)]賓國)

 一見、唐がその王に葛羅達支特勒を授けたのは、来朝したその年内(開元7年)の出来事のように見えるが、それは正しくない。なぜなら『唐会要』では、同じ事件を次のように一年後の8年の出来事と明記しているからである。

 開元七年、遣使獻天文大經、及秘方奇薬。八年、詔遣冊其王爲葛羅支特勒。(『唐会要』巻九十九 [四/厂<(炎リ)]賓國)

 この他にも、資料【梁書2】(17)河南王(吐谷渾)の帝紀526・2と529・3の項のように、遣使してから授号までに3年を要した例もある。

3 『宋書』帝紀の遣使記事の王名の推定

 『宋書』帝紀に出現する王名不明の倭国王の朝貢記事の倭王が誰であったかを知るため、『宋書』の帝紀と列伝第57(以下夷蛮伝と略)からすべての夷蛮の朝貢・授号記事を抜き出して、国別に帝紀の記事と比較対照したのが資料【宋書2】である(括弧付き番号は夷蛮伝に登場する国の順番である。また同じ国名を夷蛮伝と帝紀で異なる字を用いているケースがあるため、夷蛮伝の表記に使われた名称を表題に用い、もし帝紀で異なる字を用いている場合は、その部分だけ括弧書きで併記した)。
 さて、これらの記事の比較により、次の8つの国については、「帝紀に登場する朝貢・授号記事は、すべて夷蛮伝にも出て来る」という性質があることがわかる。

 (2) 扶南国        (9) 天竺迦[田比]黎国
 (3) 訶羅[β(施-方)]国  (10) 蘇摩黎国
 (6) [般/女]達国     (11) 斤[β(施-方)]利国
 (7) 闍婆婆達国      (12) 婆黎国

 一見この性質を持たないかに見える他の国々についても逐一調べてみよう。
 まず(1)の林邑国であるが、夷蛮伝の435年(※印)と帝紀の434年に1年の齟齬がある他は、帝紀の記事はすべて夷蛮伝にも出て来る。
 (4)の呵羅単国については、帝紀の434年(※印)と437年の記事は、夷蛮伝に無いように見えるが、437年の記事は、夷蛮伝の中で年次を記していないaがそれに対応するものとみなせる。一方、434年の記事は、この記事の国名をよく見ると、訶羅單國ではなくて訶羅「軍」國となっている。
 (5)の婆皇国では、帝紀の442年(※印)と455年の記事に対応する記事が夷蛮伝には見当たらない。このうち455年については、夷蛮伝の456年の記事(※印)が帝紀にはないことから、夷蛮伝が1年誤記された可能性が十分ある。また、帝紀の442年の記事は夷蛮伝に対応する記事がないようだが、その国名をよく見ると、婆皇國ではなく婆「黄」國となっている。
 この(4)・(5)の訶羅「軍」國や婆「黄」國は、単なる『宋書』の書写時における誤写と見なすよりは、『宋書』の原史料に既にそう書かれており、夷蛮伝の著者自身がこれらを訶羅單國や婆皇國と同じ国とは見なさなかったため夷蛮伝には記録しなかった、と考える方が合理的であるように思われる。
 (8)の師子国について、帝紀の430・7の記事が夷蛮伝では428年(※印)と書かれたと考えるのは、2年の齟齬という点でやや問題が残るが、実際は別の遣使であったのに、双方でそれぞれ別の方を省略したと考えるよりも、朝貢記事が少ないことに注意すれば、これらは同一事件と解釈したほうがよいように思われる。
 (13)の高句驪国は、帝紀の423年以降多くの朝貢記事があるにもかかわらず、夷蛮伝ではほとんど対応するものがない。ところが夷蛮伝のbやcには「毎歳遣使」とあり、この一句で、すべての朝貢を一々書かずに省略したのだと思われるのである。そして最後のdでも「後廃帝元徽中、貢獻不絶」と念を押している。
 (14)の百済国でも同様で、eに、「其後毎歳遣使奉表献方物」とあり、事情は高句驪国の場合と全く同様である。
 以上述べてきたことを纏めると、次のようになる。

C 『宋書』の夷蛮伝では、高句驪国のb、c、dや百済国のeのように「多いからあとは省略する」という趣旨の断わり書きがない限り、帝紀の朝貢・授号記事はすべて、夷蛮伝の方にも書かれている。

 『宋書』の夷蛮伝は,他の中国正史の夷蛮伝とは異なり、風俗記事や地理的説明文がほとんどなく、中国からどのような位を授号されたかという記事に終始していることはよく知られている。『宋書』の夷蛮伝はその記事の大半を帝紀と同じ天子の起居注のようなものに依存して、中身の充実のために国交関係記事すべてを取り入れ文章を作ったと考えると、Cの性質は理解しやすい。
 さて、Cの性質を倭国に対して適用するとどうなるであろうか。倭国伝の場合は、高句麗のb、c、dや百済のeのような断わり書きはない。したがって、Cにより、帝紀の430・1、438・4、460・12、477・11の記事についても、倭国伝の方に対応する記事がなければならない。このうち438・4は記事内容の一致からqに対応している。すると、あとは必然的に、430・1の記事がpに、460・12の記事がtに、477・11の記事がuに対応していることになる。そうすると、430・1と438の倭王は珍、443の倭王は済、460・12の倭王は興、477・11の倭王は武となり、帝紀の王名不明の倭王の名が決まるのである。つまり、帝紀430・1の倭王が讃ではなく珍であるということは、次のことを意味している。

D 『宋書』によれば、讃は、単に倭王と書かれていないだけでなく、実際に倭王に封ぜられていない。

 以上の分析に対し、倭国伝には421年に「詔して(中略)除授を賜うべし」とあるのだから、最低でも王には除されていたはずではないか、という考えもあるかもしれない。しかし資料【宋書2】(4)呵羅単国の夷蛮伝449年のように「可並加除授」と、讃と似たような詔が出ていながら、新たな授号が実質行われなかった例もあり、讃の場合も,必ずしも王を授号されたとは限らないのである。
 また、関氏の前述論文では、各夷蛮伝の冒頭部分を引用し、夷蛮伝の中で初出の朝貢者が王と書かれていないのは倭国だけであり、極めて異例のことであると述べておられるが、本当に「倭国だけ」なのであろうか。
 これは、資料【宋書2】を見ると頷けるように思えるが、ここでも「文字の異同」の問題がある。(3)の訶羅[β(施-方)]国で、奉表中の「訶羅[β(施-方)]国主」の部分に注目すると、「国王」ではなくて「国主」と書いてある。この訶羅[β(施-方)]の主権者は、王の称号を認められていない、あるいは王と自称していないのである。

5 後代文献の「倭王讃」

 前節で『宋書』には讃が倭王に封ぜられたとは書かれていないことを確認したが、『宋書』よりも後代の中国史書には讃を王と書いた文献がある。それは資料【後代文献】に引用した『梁書』(636年)、『南史』(659年)、『通典』(801年)、『太平御覧』(983年)、『冊府元亀』(1013年)、『文献通考』(1317年)等である。しかし、これらの記事は、後で述べるように、先行史書の孫引きであると思われる。
 aの『梁書』は後に回し、bの『南史』を見ると、1行目の前半はaの1行目のコピー、後半の「遣使朝貢」は、資料【晋書1】の帝紀413年是歳条の記事から書ける。また、bの2〜22行目は『宋書』倭国伝のコピーまたは要約、23〜24行目は、資料【南齊書2】(5)倭國の夷蛮伝479年条の要約、25行目はaの5行目の要約である。
 次にcの『通典』であるが、原則として『宋書』倭国伝から直接引用しているが、『宋書』にはなく『梁書』にある情報も使って「倭王讃」とか「至曽孫武」などと書いていると考えられる。
 次にdの『太平御覧』であるが、これは冒頭の「南史曰」という句から明らかなように、『宋書』とも比較せず『南史』をそのままコピーしている。
 また、eの『冊府元龜』の1行目は先行文献の要約ミスで、eでは「封國偏遠…」の部分は讃の上表文のように読めるが、『宋書』によれば、これは実は讃ではなく武の上表文である。他は『宋書』のコピーである。
 最後のfの『文獻通考』はほとんどbの『南史』と同じである。
 以上、b〜fは『宋書』か『梁書』の孫引きであることがわかったが、aの『梁書』についてはどうであろうか。 『梁書』は、梁代の記事はともかく、前代までの事件の記述に関してはかなり杜撰であることが知られている。
 第1に、梁に先行する後漢、三国、晋、南斉時代の人名や地名などを先行史書と比較した場合、次のような固有名詞の誤記が多い。

  區達(『晋書』では區連)、范稚(『晋書』では范椎)、陶緩(『晋書』では陶綏)、
 須達(『晋書』では范達)【以上林邑国】
 徼國(『南斉書』では激國)、范蔓(『南斉書』では范師蔓)【以上扶南国】、
 慎奴部(『三国志』では順奴部)、劉(『晋書』では[金リ])【以上高句麗】
 休運(『魏書』では伏連)【以上河南】
 君得(『後漢書』では位侍)【以上于[門<眞]】

 倭國の条でも『宋書』の「讃」を「賛」、「珍」を「彌」に、『後漢書』の「邪馬臺」を「祁馬臺」に誤っている。
 第2に、『梁書』倭国伝では、魏志倭人伝の有名な行路記事が次のように要約引用されているが、対馬(海)国が消されたうえ、魏志倭人伝では様々な解読の余地があったものが、直線的にしか読めない形に書き直されている。

 從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里。始度一海、海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國、即倭王所居。(梁書 列傳第48 諸夷 東夷 倭)

 第3に、『宋書』倭国伝では続柄の書かれていない珍と濟の関係が、『梁書』倭国伝では親子とされているが、aの2行目のような単純な記事のみで、その情報源を仄めかすような記事もなく、事実かどうか解からない。
 以上のことから、『梁書』の「倭王賛(讃)」のような、梁以前に関する記事の信憑性は大いに疑わしいのである。

第2章.倭の五王以前

1 『晉書』の「東夷」朝貢記事

 『三国志』の倭人伝によれば、魏代最後の倭王壹與は、「年十三爲王」と、王であることが明記されている。従ってもし讃が壹與の王権の後継者だとしたら、中国は王の後継者に王位を与えなかったということになる。このような例は他の夷蛮に対しては見られないので、授号する側の中国ではなく、倭国側の事情によるのではないかと思われる。本章では、この問題をさらに詳しく詰めてみたい。
 周知のとおり、晋は司馬炎が魏を引き継いで立てた西晋(265〜316)と、それが前趙に滅ぼされ、司馬睿が南京に立てた東晋(317〜520)の時代に分かれる。このうち、魏と西晋の関係、東晋と宋の関係は禅譲であり、西晋と東晋の間には断絶がある。資料【晋書1】、【晋書2】は中国と全夷蛮の国交記事をまとめたものであるが、
 まず、次のことがわかる。

E 倭国との国交記事は、西晋の最初と東晋の最後にしか出て来ない。

 もっとも、【晋書1】帝紀には、286年以降、◇を付けた「東夷××国朝貢」(××には国数が入る。以下同)という国交記事が全部で18個ある。この中に倭国が入っている疑いがあるが、次の理由から入っていない可能性の方が高いと思われる。
 その理由の1は、【晋書2】(5)倭人の条で、266年の朝貢までは「其後貢聘不絶」とか「及文帝作相、又數至」と頻繁に朝貢したことを記していながら、266年より後の朝貢を示唆する記事がないことである。
 理由の2は、次の(1)〜(3)により、『晋書』帝紀で「××国」と表現されているのは、馬韓か、扶南か、夷蛮伝で独立した項目を持たない小国のいずれかであり、倭國は含まれないと思われるからである。

(1) 【晋書1】290年に「東夷七國」とある。一方、資料【晋書2】の(2)馬韓と(6)裨離等十國伝の夷蛮伝290年条に、東夷校尉何龕を詣でて朝貢した記事があり、前者で馬韓一国、後者で牟奴國、模盧國、于離末利國、蒲都國、縄餘國、沙樓國の6国が朝貢しているので計7国となり(290年の朝貢記事はこれで全部)、「東夷七國」と国数が一致する。すなわち、この7国とは、馬韓以外は夷蛮伝で独立した項目を持たない小国である。
(2) 【晋書2】の(2)馬韓の朝貢年次はすべて【晋書1】で◇を付けた年次に含まれることから、馬韓は「東夷××国」の中に含まれると思われる。
(3) 【晋書1】帝紀の285年条と286年是歳条に「○○等××國」という表現があり、○○に来る国名は扶南と馬韓だけである。

 なお、帝紀289年是歳条に「東夷絶遠」とあって絶遠→極東→日本という連想をする人がいるかもしれないが、ここで「絶遠」と書いているのは、おそらく裨離等十國伝の次の記事によるもので、日本列島とは関係ないであろう。

  裨離國在肅愼西北、馬行可二百日、領戸二萬。養雲國去裨離馬行又五十日、領戸二萬。寇莫汗國去養雲國又百日行、領戸五萬餘。一羣國去莫汗又百五十日、計去肅愼五萬餘里。(裨離等十国伝)

2 朝貢断絶の原因

 資料最後の【年表】によると、国交記事は、西晋の、それも275〜290年付近に集中している。夷蛮の各国の事情で偶然この時期に朝貢が重なるということは考えにくいので、この国交記事の集中は、中国側の事情によるものと考えられる。さらに詳細に見ると、次のように、倭國だけに例外的な状況がある。

F 西晋と国交記事のない吐谷渾、高句麗、百済を除き、国交記事の集中する西晋の275〜294年の間に国交記事がないのは倭国だけである。

 一方、東晋になってからは、国交記事が急減している。実際に国交そのものが減少したのか、単に中国の記録が散逸しただけかどちらかだと思われるが、中国南部に建国した東晋に南接する林邑国や扶南国との国交記事だけは数多く存在しており、南接した国々の国交記事の記録だけが偶然残ったと考えるのも不自然であるから、実際に国交が減少したのだと思われる。一方、動乱が収まった後の東晋の中期以降(350年以降)に朝貢しているのは、国名不明の「東夷××国」を除けば、倭国、高句麗、百済、林邑及び扶南だけであるが、ここでも倭國だけは例外的なのである。倭國以外の国は、西晋への朝貢記事がない(高句麗、百済)か、中国南部に接している(林邑、扶南)かのいずれかで、いずれも中国北部の政権交代の影響を受けない国々である。
 これをまとめると次のように表現できる。

G 西晋に朝貢し、かつ西晋の滅亡で中国北部の政権交代の影響を受けたはずの国で、中期以降の東晋にも朝貢しているのは倭国だけである。

 Fは倭国の側に中国へ朝貢できなくなる理由(王権の交代等)が生じたことを、Gは東晋に朝貢した倭が西晋に朝貢した倭とは(中国との関係が異なる)別の王権ではないかということを、それぞれ示唆しているように思われる。

第3章.倭の五王以降

1 消えた倭国

 宋の後は南斉・梁と続くが、『晋書』について行なったのと同じ調査を『南斉書』と『梁書』について行った結果を、資料【南齊書1】【南齊書2】と資料【梁書1】【梁書2】に掲げておいた。【南齊書2】(5)と【梁書2】(13)から、次のことが得られる。

H 倭国に対する国交記事は、『南斉書』『梁書』ともに、その王朝が成立した最初の年のみで、その後は記事が一切ない。

 同資料では、当該国からの朝貢記事や戦争記事、王の交代といった、「当該国の存在が確認できる記事(●又は★付きで示す)」と、単なる授号のような、「当該国の存在が確認できない記事(○又は☆付きで示す)」に分けてあるが、これらの事実から、次のことが解かる。

I 『南斉書』『梁書』ともに、○又は☆印を付した記事以外に国交記事がないのは、倭国(及び倭の東北や東の方角にあると記された文身国・大漢国)だけである。

2 倭国の授号記事の実体

 ここでさらに、「当該国の存在が確認できない」倭国の国交記事を具体的に見てみよう。
 まず『南斉書』であるが、それは【南斉書2】(5)倭国伝479年の南斉王朝成立時における記事だけである。
 また、『梁書』の方も【梁書2】(13)倭国伝502年の記事と帝紀502・4の梁王朝成立時の二つの記事だけである。特にこの後者は、次のような中国の新王朝の高祖即位記念行事の一環として(本人の存在を保証せずに)進号されたに過ぎないと見做すべき記事である。

 天監元(502)年四月丙寅、高祖即皇帝位於南郊。
   (中略)
 戊辰、車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。
    鎭東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。
    安西將軍宕昌王梁彌[台頁]進號鎮西將軍。
    鎭東大將軍倭王武進號征東將軍。
    鎭西將軍河南王吐谷渾休留代進號征西將軍。
 巴陵王薨于姑孰、追諡爲齊和帝、終禮一依故事。
                (梁書 武帝紀中)

 以上の点を整理すると、次のことがいえる。

J 『南斉書』『梁書』ともに中国が倭王権の存在を確認したことを示す形跡は存在しない。

 478年に既に武は王だったから、梁(502〜557)の間中ずっと武が在位していたとは考えられない。もし倭王権が存続していたのなら、他の夷蛮はすべて中国と国交を維持しているのだから、同様に中国と国交関係を維持しようとして、武の次の王が授号を求めて朝貢するはずである。それが無いということは、倭国の側に、国交が保てない事情(王権の断絶等)が生じたと考えられるのである。

第4章.まとめ

 以上、中国史書の帝紀と夷蛮伝における国交記事の統計的調査を行うことにより、要となる事項をA〜Jとして纏めてきた。これらを纏めると、「讃」は、壹與の王権の後継者ではないこと、その地位も倭王ではなく、弟の「珍」に至って初めて王位及び安東将軍位に除されたこと、また「武」のあとに王権が存続していれば当然続けるはずの朝貢が途絶えていることなど、4世紀と6世紀に倭王権の交替があった可能性が浮かび上がって来るのである。
 本稿の結論を、考古学あるいは記紀の分析結果と組み合わせて7世紀以前の日本の歴史を復元する作業は今後の検討課題である。